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ノラさん

10 29 *2020 | 未分類

またTwitterで書きました。めちゃくちゃスランプ中です。
短い話にしたかったのに(これも短いが)新書メーカーで8枚になりました。
28歳OLが、謎の青年を拾う話です。めちゃくちゃ捏造しています。スランプの割にはこじんまりとまとまりました。
相手がJKじゃないので、禁断感なく普通に営みがあります。いちおうはぴえんです。


『ノラさん』

 わたしはその人のことを『ノラさん』と呼んでいた。ある日、不意に現れたかと思うと、すっとわたしの日々になじんだ。静かな野良猫のような人だった。名前を聞いても、ちゃんと答えなかった。だから、わたしがすこしふざけて『ノラさん』と呼ぶと、ちょっと嬉しそうにして「いいですね、それ」と言ったから、彼はその日から『ノラさん』になった。

 ノラさんと出会ったのは、雨の日だった。傘もささず、森林公園のほど近くのマンションの茂みにしゃがみこんで、なにかを探しているようだった。
 足元は、破れそうなサンダルに素足だった。おそらく、天然パーマであろう髪の毛は肩にすこしついていて、長らくカットはしていないようだった。普段なら近寄りもしない、いかにも『現代風ヒッピー』な風態の彼に声をかけたのはどうしてだろう。たぶん、白い麻のシャツが清潔だったからだ。まるでそこだけ王子様のようで、わたしは、小学生の頃の学芸会のクラス演目で演じた『王子とこじき』の『王子』をふと、思い出していたのだった。

 雨の中、彼が救い出した白い小さな子猫は、彼が抱き上げたのを見計らったかのようなタイミングで飼い主の女の子と母親が現れて、無事に引き取られて行った。「よかったですね」とわたしが言うと、彼は心底に安心したような笑顔で「うん、よかった」と言った。
「あと、傘もありがとう」
 そうなのだ。ずぶ濡れのままでしゃがみこんだ彼を放ってはおけず、今更だとは思ったが、わたしはそのさなか、彼に傘を差しかけていたのだった。
「じゃあ」
 と、立ち去ろうとする彼を、思わず呼び止めたことに、自分自身でも驚いた。
「あの、わたしの部屋、このすぐ先なんですけど、ちょっと温まって行きませんか?」
 五月の雨は冷たかった。純粋に、風邪でも引くと大変だと思ったのだ。
 彼は、じっとわたしの目を見つめた。深い緑の色がひとすじのさざなみすらたてず、無機にわたしを射抜く。
 その間は、たぶん一秒にも満たなかっただろう。でもその短い間に、わたしは死ぬほど後悔した。
 まるで、こちらが誘っているようではないか。傘を差しかけている間に気がついていた。彼はとても端正な顔をしている。手足も長く、見目はとても良かった。
 いろんな女の人から、色のある視線で誘われることも多いだろう。そのうちの一人に思われたのではないか。
 恥ずかしい。その気持ちに囚われて、下を向いた時、彼は言ったのだ。
「ありがとう。僕には家がないから、助かります」

 ……家がない? 彼のために湯を張る間、すこし考えた。でも意味がわからなかった。ホームレスということだろうか。たしかに、一部風態から察するに、そう思える部分もある。しかし、家までのほんの数百メートル、少し離れて歩いてわかった。彼はとても慎重で、そして奥ゆかしい青年だ。べつになにを話したわけでもない。しかし、その振る舞いや足音の静かさで、彼の生き方を垣間見ることができたような気がしたのだ。

「着替えとタオルはここに置いておきます。その、さすがに下着はないので買ってきますね」
 戸の外から言うと、遠慮するふうでもなく「ありがとうございます」と彼は答えた。
 昔の彼氏のジャージを処分していなくてよかった、と思った。はじめはわずかな未練から残していたのだけど、いつしか存在すら忘れていたものだった。
 いつまでも少女のような気持ちでいたけれど、わたしはいつのまにか、男物の下着を選ぶことも普通にできるし、そして男の人のだいたいのサイズもなんとなくわかる年齢になっていた。
 いわば、おとなだ。そのおとなのわたしが、いったいなにをやっているんだろう。そう思いながらも、コンビニで、下着を二セットと、六個入りの卵を買った。オムライスなら、この卵さえあれば、他はありあわせのものでできる。それからカットサラダを買って、コンソメスープのためのベーコンも買った。

 ご飯を食べ終え、一LDKの部屋の床に客用布団を敷くと、彼はあたりまえのようにそこにもぐりこんで、即座にすやすやと寝息をたてはじめた。
 万が一、なにかあってはと意識して、ほんの少しだけいい下着をつけた自分が馬鹿みたいだと思った。
「ノラさん、か」
 変なことになったな、と思う。あんのじょう、洗うとピカピカの王子様みたいになったノラさん。カーテン越しに差し込む街灯の薄い灯りが、部屋干しした麻のシャツを青く浮かび上がらせる。仕立てのよいシャツだった。年齢を聞いても、答えなかった。年上なんだろうか、それとも、下なんだろうか。持ち物はなにもない。ズボンの後ろポケットに、無造作に三万円と、少し小銭が入っているだけだった。
 謎の「ノラさん」。
 彼の規則正しい健やかな寝息を聞くうちに、わたしもいつのまにか、安らかな眠りに落ちていった。

 そうして居ついたノラさんとの暮らしは、静かだった。そして、楽しい。ノラさんはおしゃべりではないけれど、話すとわりとなんでも知っていた。『わりと』というのは、彼は、不思議なくらい日常生活のことを知らなかったのだ。難しい宇宙のことや、政治のしくみ、外国の文学の話は知っているくせに、自転車の乗り方や、自動販売機の使い方を知らなかった。あと、少女たちが空き地で遊ぶゴム跳びも知らなかったし、川原でプレイする草野球もはじめて見たようだった。新しいことを発見するたび、ノラさんは子どものように目を輝かせた。
 あの頃、わたしばかりが話していた気がする。ノラさんはなにも自分のことは話さなかった。だけど、テレビを見ている時、不意に険しい顔をすることがあった。それは、遠いアメリカの、重たげなニュースをやっている時だ。そんなとき、わたしはノラさんの好きな野球中継に合わせる。彼自身は、特別に野球を好きなわけではないと言っていたけれど、そのわりには楽しげに見ていた。
 夏の夜は、長く、優しい。
 蒸し暑さが頂点に達したある日、わたしは女であるというだけで、会社で理不尽な差別に遭った。これまで頑張ってきた企画を上司が「これ以上はこちらで」とわたしから簡単に取り上げて、男の同僚に渡してしまったのだ。この先は責任が増すから、という話で、同僚は軽く「悪いな」と言ったきりだった。悔しくてたまらなかった。だけど、上司の命令には逆らえなかった。泣けばますます女であることが不利になるから、そこでは堪えた。
 その後の残務でも、電車の中でも泣くのを我慢した。家に帰ると、ノラさんがいた。呑気に「おかえり」と微笑むノラさんの顔を見た途端、泣き崩れた。
 ノラさんは、困ったような顔をして、わたしをそっと抱き寄せて、ゆっくりと頭のてっぺんを撫でてくれた。
 恋人でもない、肉親でもない人の大きな手のひらは、驚くほどに心地よくて、わたしはその腕の中で存分に泣いた。
 わたしが「もうとうぶん残業はないよ」と言うとノラさんは「そうですか」と、抑揚なく言った。それがあまりに彼らしくて、ますます泣けた。
 その夜、わたしははじめて、ノラさんの手によって開かれた。いいかげん、もうなにもないだろうと気を抜いて普段通りの下着でいたから、不意を突かれたようなかっこうだ。だけど、考えてみれば、時々ノラさんは、洗濯をして待ってくれていることもあったので、いまさら、そんなことは関係なかった。
 昼間は、女であることをあれだけ呪ったのに、その時、わたしははじめて、自分が女であることをからだの奥から享受した。
 ノラさんは、びっくりするくらい、うまかった。ほんとうにびっくりしすぎて、いろんな意味で腰が抜けそうだった。
 そして、仕立てのよいシャツの意味も、他は不器用なのに、すこしだけ手際の良い洗濯の仕方の理由も、わかった。
 彼は、こういう暮らしがはじめてではないのだ。

 ノラさんと暮らしはじめて、三ヶ月が経っていた。わたしたちにセックスが加わっても、べつになにも変わらなかった。
 ノラさんは、ほんとうにいろんな意味でうまかった。この暮らしに恋愛感情が入り込むと、複雑になることを知っていたのだろう。ノラさんのみごとな『躱し術』のおかげで、わたしがノラさんを恋愛対象に見ることはなかった。
 朝ご飯を食べて、仕事に出かけて、帰ってくると晩ご飯にして、たまに野球中継を見て、週末には一本ずつ、三五〇ミリリットルのビールを飲んだ。
 週に一度か二度、セックスをした。たぶん、ノラさんにしてみると家賃がわりのようなものだったのだろう。わたしばかりが、良かった。

 秋の気配を感じたある日、わたしはノラさんのために厚みのあるコットンのシャツと、ウールのカーディガンを買った。麻のシャツ一枚では寒い季節になりつつあった。
 なにに張り合ったわけでもないけれど、デパートでわりと良い金額を出した。
 またアメリカの経済のニュースを見て、ノラさんが眉間にシワをよせる。野球中継はもうやっていなかった。

 その日、家に帰るとノラさんはいなかった。なんとなく、予想はついていた。テーブルの上に、丁寧に畳まれたウールのカーディガンが置かれていた。さらにその上に、合鍵と、なぜか五万円。
 ノラさんはここにきて、時々自分の小遣いからビールを買ったり、本を買ったりしていた。もちろん、働いている気配はなかった。なのに、どうして三万円が五万円に増えているんだろう。
 へんな人だったな、そう思った。
 
 昨夜わたしは、ノラさんとセックスをした。いつも通り、わたしばかりが良かった。薄目をあけてこっそり観察していたら、さすがのノラさんも、射精のときばかりはちょっと気持ちよさそうにしていた。それを可愛いと思ったのだ。
 可愛いと思ったから、終わったあと、肩で息をしているノラさんのことを抱きしめて、軽く鼻の頭にキスをした。こんなことを平気でする関係ながら、わたしたちはいまだくちびるを合わせたことはなかった。だから、そこはちょっとだけ遠慮したのだ。
 ノラさんは、穏やかな野良猫のようにされるがままにしていた。
「髪の毛、また切らなきゃね」
 ノラさんの柔らかくてふわふわの髪の毛の中に指を差し込んで、言った。これまでの暮らしの中で二回、わたしがノラさんの髪の毛を短く切ったのだ。
「うん」
 ノラさんは素直にうなずいた。
 さあ寝ようか、となったとき、ノラさんが言った。
「今日はこっちで寝ますか?」
 何度もセックスはした。それはわたしのベッドでだったり、ノラさんのお布団でだったりした。でも終わった後は、それぞれの場所に戻り、離れて寝た。ノラさんと一緒の寝具で眠るのははじめてだった。
 わたしは、動揺した。そして、ちょっと逡巡して、結局ノラさんの誘いを受けた。
 ノラさんは、わたしを抱き寄せるでもなく、すぐに寝息をたてはじめて、わたしとしては同じ布団で寝た意味はないような気がした。
 ノラさんは、その翌日、消えた。

 あれからしばらくして、わたしは、人生で一度きりの本気の恋をした。ノラさんとのことなんて宇宙の果てにふっとぶくらいの、とびきり幸せな恋をしたのだ。
 その恋が実り、結婚式を明日に控えた夜、わたしは久しぶりにノラさんのことを思い出した。そして、願わくば、ノラさんも幸せになっていますように、と祈った。
 温かいご飯を食べて、ふかふかの布団で寝て、そして、誰かと抱きしめ合って、慈しみあうように生きていますように。その傍らには、子猫でもいるといいと思う。
 思えばあの夜、わたしは一瞬だけ、ノラさんに恋をしたんだと思う。そして、うぬぼれじゃないなら、ノラさんもわたしにほんの数ミリ程度、恋をしかけたんじゃないだろうか。そして、彼は面倒が怖くて、逃げ出したのだ。そんな暮らしを繰り返しては、白いシャツを着替えてきたのだろう。
 なんて、ずるい人。そして、優しかった人。
 そうだ、もう一つ、祈っておこう。
 どうか、彼がどうしようもなく、面倒な恋に落ちますように! そして面倒でもその恋から逃げ出すことができないほどに深く、深く、愛し愛されますように!
 白の麻のシャツは、昨日捨てた。
 さようなら、ノラさん。優しくて、かなりヘタレな、野良猫の王子さま。たとえいつしか完全にあなたを忘れても、あなたの幸せだけは、ずっと、ずっと願っているから。あなたもわたしを忘れているだろうけど、いつまでもわたしの幸せを願っていて。

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