わたしたちは、まだまだ子どもで。
お互いに、ぶつかりあってははじけて散って、行き場をなくす。
恋ってもっともっと、楽しいものだとおもってた。だけど、わたしの恋はぜんぜんだめ。
「だーかーら! お前、もうクビ!」
今日もささいなことで口げんかになる。
***
『好き』って言葉だけを呪文のようにとなえながら、入学以来、わたしはひたすら、彼ひとすじに恋をしてきた。
彼が『似合う』とひとこと言えば、苦手な赤い色の服を着たし、ぜんぜん興味もない、ただひたすら音がうるさいだけのバンドのライブにもつきあった。泳ぎが嫌いだと公言してはばからない彼にあわせて夏の海のデートだって我慢をしたし、ミニスカートが好きな彼のために、制服の裾も短くした。
我慢も努力も、ぜんぜん苦にならないくらい、彼を好きだとおもってた。むしろ、彼好みに変わってゆく自分に、陶酔感すら感じていた。
ある日唐突に西本さんにライバル宣言を突きつけられ、それを受けてたったとき、なぜか、わたしは孤立した。ほとんどの女の子たちが、西本さんを応援する側にまわったのだった(あとでクラブの先輩に聞かされたところによると、当時、佐伯くんとわたしの仲がよかったことが、女子たちの反感を買っていたのだそうだ。ただのバイト仲間なのに)。
それなら別に、と、友情だって、あっさり捨てた。
そんなことがあったせいで、わたしは余計、ムキになった。彼を手に入れられなければ、わたしはほんとうの独りになる。そうおもうといてもたってもいられなかった。どうしても、この人が、ほしかった。
そうしてひたすらがんばった一年半。夏休みの終わり頃から、ようやく、彼のとなりに並ぶことを許されはじめた。
――それなのに。
文化祭をまえにして、ナーバスになる彼と、こうして言い合いになっている。
***
「なぁ、お前さ、俺が本番に弱いの、知ってんだろ? そんでなんで? なんで当日、演奏前の貴重な時間を割いてまで、お前の応援に行ってやんなきゃなんないわけ?」
今日のけんかは、文化祭での出展のことが原因だった。わたしが所属する手芸部のファッションショーを、せめてひと目でも見てほしい、とお願いしたことが、彼の気にさわってしまった。
だって、ハリーの好きな色で作ったドレス。赤いドレス。それをひと目、見てほしい。そしてそのとき、ひとことだけ、『似合うな、お前』って言ってくれたらそれでいい。
その思いを胸にだいて、夏休み前からずうっと準備を進めてきたのに。
「だって、ハリー、ねぇ、聞いて?」
「あーあーあー、もうホント、お前のわがまま、きいてらんねー、そもそも、誰が俺の好きな色でドレス作ってくれって頼んだよ?」
「そんな、ハリー……ひどいよ」
「ひどいのはお前だ。こっちの都合も、ちったー考えろ」
あまりの言いぐさに、あ、この人、もしかして、わたしを全然、好きじゃないのかも、なんて気がついた。そのとたん、鼻の奥にツンとしたいたみが走った。
泣きそう。でも、泣いたら、ダメ。ここで泣いたら、またハリーに怒られる。
「うん、ごめん。わたしが、わるかった、かも。ちょっと頭、ひやしてみる。今日は先に、かえるね」
「あぁ、んじゃ、送ってやれねぇけど、気ィつけて帰れよ。俺はもちっと練習してから、帰る」
あわてて帰ろうとするわたしを引き止めてもくれないハリーの言葉に、もうほんとにダメなのかも、って実感した。ハリーにとっての一番は、わたしじゃない、音楽だ。それを優先させてあげられないわたしなんかじゃ、最初の最初っからダメだった。
『付き合えた』ってよろこんでたのは、たぶん、わたしひとりだけ。ハリーはきっと、わたしの情熱にひきずられていただけなんだ。
涙、がまんしすぎて、もう目の奥から鼻の奥から、耳の奥まで、ぜんぶいたい。
だけど、それより、心がいたい。
「じゃあね、バイバイ」
やっとのことでそれだけ言うと、ハリーから、顔を隠すようにして音楽室をあとにした。
朱色にそまった廊下にでたら、もうすっかり冷えびえとしていて、あぁ、わたしはひとりになるのかもしれない、ってそう、おもった。
急に足元がすうすうとした。ハリー好みに短くしている、スカートの裾に風が吹き込んできたのだ。
***
音楽室ではあんなに泣きたかったくせに、廊下に出て一人であるけば、どうしてだか、涙のひとつぶも出てこない。
目の裏に涙がぱんぱんにつまったままで苦しいのに、涙腺にフタをされてしまったような感覚が、ただ、いたくて辛かった。
「ハァ……」
涙のかわりに、ため息を吐きだした。
すると、急にポン、と頭のうえに大きな手のひらが乗った。
「ため息をついたら、しあわせが逃げちゃいますよ?」
頭のうえから優しい声が、わたしの憂鬱をそっと拭い去るようにひびく。
「若王子先生、わたし元々しあわせじゃないから、いいんです」
わたしがふりむきもせずそう言うと、先生の手のひらが、こんどはポンポンと二回、わたしの頭の上で跳ねた。その感触に目をほそめると、視界の端に差し込む夕陽が、赤くて痛い。
「や、それは聞き捨てならない。なんなら先生が、君をしあわせにしてあげますけど?」
「先生、冗談いわないで」
心配して声をかけてくれた先生に向かって、こんなかわいくない言い方をしてしまうなんて。自分のかわいげのなさに情けなくなる。だけど、これがわたしの性分なのだ。こんなだから、ハリーに呆れられてしまうのかな。そう思うと、またひとつ、ため息が出た。
「やや。またため息。大事な生徒のため息を2回も聞いて、先生なおさら、聞き捨てるわけにはいきません。もし君さえよかったら、その理由を先生に話してみない? きっと楽になれますよ。今ならお得なコーヒーつきです」
若王子先生が、あまりにも穏やかにのんびりいうから、ついうなずきそうになってしまう。だけど今、先生のやさしさに触れてしまったら、きっと今度こそ、泣いてしまう。だから、今は、甘えるわけにはいかない。
西本さんからのライバル宣言によって女子からすっかり孤立してしまったわたしを、担任である若王子先生はずいぶん気にかけてくれるようになった。
こうしてなにかと声をかけてくれては、こまめにフォローをしてくれる。近頃では、クラスのみんなと行動する課外授業には出にくいだろうからと、ときどき、個別にふたりだけでの課外授業をしてくれることもあった。
そんな先生の優しさは心地がよくて、さすが人気者で博愛主義の若王子先生だなぁ、と妙に感心してしまう。
だけど、いくら先生が優しくしてくれても、先生は先生だ。友達じゃない。甘えすぎるわけにはいかない。ましてや、ハリーとのことなんて、個人的すぎて、もはや学校の先生に相談するっていうレベルじゃない。
「うーん。やっぱり今日は、遠慮しておきます。ありがとうございます。また今度、聞いてください」
わたしがそう断ると、先生が「君、辛そうだ。無理してない?」って引き止めた。
その声が、なぜかさみしそうに聞こえたから、不思議に思ってわたしより頭ふたつぶん高いところにある先生の顔を仰ぎ見た。そしたら、わたしより先生のほうが泣きそうな顔をしているように見えて、びっくりした。だけど、それは夕陽がつくった影がみせる、錯覚なのだろう。
「先生、だいじょうぶです。わたし、無理はしていません」
そう言いながらも、むりやり笑顔を作って、「お先に失礼します」とあらためて先生に背を向けた。
そのまますたすたと歩いて、どんどん離れるわたしの背中に、先生がさらにダメ押ししてくる。
「じゃあ、今から一緒に帰らない?」
「ごめんなさい、先生。わたし、今日はひとりで帰ります」
先生が、ため息をついた気配がした。離れていても、わかるほどに。
「……そう、わかりました。君がそこまで言うなら。じゃあ、気をつけて帰って。急いで走って、転んだりしないようにね」
小学生にさとすかのような、先生の的外れな見送りのことばに笑った。のどの浅いところから、あはは、ってかわいた笑い声が出た。その瞬間、栓がぬけた。涙も鼻水も感情も、なにもかもが、笑いといっしょにぜんぶ、ぜんぶ、ふきだしてきた。
先生の、バカ。ハリーの、バカ。みんなみんな、バカ。だけどわたしがいちばん、バカ。
声を出さずに、号泣した。肩をふるわせたら、先生に気づかれてしまう。そうしたら、きっと先生はわたしを追いかけてくるだろう。先生に、変な心配はかけたくない。だから、ひたすら、まっすぐに前を見たままで。
わたしは涙もぬぐわずに、泣きながら、歩くのだ。
***
文化祭当日。
わたしは、ひとりでステージの袖に立った。けっきょく、ハリーとは仲直りをしないままにこの日を迎えた。
……もう、終わりかな。終わるのかな。わたしの恋は、ここが終点?
すうっと息を吸い込んだら、会場のざわめきの気配が粒になって、からだのなかに入ってきた。あらためて、ドキドキする。今日のわたしはひとりぼっちだ。わたしを応援してくれる人はいない。
――一人だけど、がんばろう。
スパンコールをつないで作った肩のストラップの位置を指先でそっとなおした、その瞬間。
「マドモアゼル」
間の抜けたような、優しい声がわたしを呼んだ。
「え? わ、若王子せんせい!」
どうしたんですか、と二の句を告げようとしたら「あ、自分のことだと思ったでしょ?」と、先生は笑った。
「君を応援しにきましたよ」
「は?」
「は、じゃないです。きれいなマドモアゼルが、そんな顔しちゃ、おかしいです」
おかしな顔にもなろうってもんだ。まさか、若王子先生がここに来てくれるなんて、小指のつめの先ほどもおもっていなかった。わざわざ見に来てくれたのに、お礼を言うより、疑問のほうが先に口をついて出る。
「先生、今日はこうやって、クラスのみんなのところを回ってるんですか?」
「まさか! 君だからですよ」
「え?」
「実は先生、ナンパしたり呼び込みしたり、これでも色々忙しいんですよ。みんなのところに回れるわけ、ありません」
「はぁ……」
そんなに忙しいなら、じゃあどうして、って聞こうとしたら、先生に先回りされた。
「ほら、君、こないだ、泣いてたから」
「な、泣いてません」
「うん。君がそういうなら、泣いてなかったのかもしれないね。でも、先生には、泣いてるように見えたから」
ふいに図星をつかれたわたしは、先生からそっと視線を外してうつむいた。
すると、先生の手のひらが、またわたしのつむじに乗る。
「そのドレス、君によく似合ってます」
もう、誰からももらえるはずもないとあきらめていた、その言葉。
それでも待っていた、憧れていたその一言を聞くと、胸がいっぱいになって、困る。
うつむいたままのわたしに向かって、先生はそのまま続けた。
「ものすごく、可愛いです。ちいさな、金魚みたいだ。すくって持ってかえりたいほど」
先生、また的外れなことを言ってる。先生流のホメ言葉なんだろうか。ドキドキしながらも、ふっと笑いがこみあげる。
「あはは。先生。おもしろいです」
「やや、そう? 先生本気で言ってるのに。でもやっと笑った。その笑顔で、がんばってきなさい」
「はい」
わたしは、大きく、うなずいた。
ジリリリリリ。必要以上に大きな音で、開演を知らせるブザーが鳴った。
先生が、なにか一言、つぶやいた。
「……しておきなさい」
リリリリリ。リリリリリ。
狭い舞台の袖に、ベルの音が反響するから、先生の声が聞こえない。
「先生、今なんて言ったんですか?」
「あれ、聞こえなかった?」
先生は、おどけた顔で笑っている。今は時間がないから、あとで、ゆっくり聞いてみよう。
「じゃあ、先生。行ってきます」
「行ってらっしゃい。いつもどおり、ちゃんと見ててあげるから」
先生が、わたしの背中をそっと押した。
一人だと思っていたのに。先生が来てくれたことでものすごく、気持ちが軽くなった。
味方がいるって、すごいことだ。
――若王子先生、ありがとうございます。
先生の応援に後押しされながら、わたしは、ステージに向かって歩みはじめた。
瞬間、先生の言葉がわたしに覆いかぶさってきた。
「あのね、僕にしておきなさい、って言ったんですよ」
え? なに? どういう意味? 唐突な先生の言葉が理解出来ない。
ふりむいて、先生の顔を見たいけれど、スポットライトは待ってくれない。もうわたしは、前に進むことしかできない。
先生のせいで、よろよろとふらつきながら舞台に出たら、網膜に、ライトのまぶしいひかりがさしこんできた。
目が、くらむ。
視線を正そうと、あわてて暗がりの客席に視線をやると、一番前のど真ん中、特等席で、ハリーがじいっとこっちを見ていた。
なによ、今さら。けっきょく、見にきてくれたんじゃない。
ハリーの口が、『が ん ば れ』って動く。つづけて『○ ○ ○』。
『ク ビ だ』? 『似 合 う』? まさか、『好 き だ』? なんて言ってるのか、わからない。
ステップを踏むと、赤いロングドレスの裾が、ひるがえる。
金魚の尾が、はねるみたいに。
***
舞台を降りたそのときに、わたしはどちらに行くんだろう。
ハリーのところに走っていって「さっきの、なんて言ってたの」って聞くんだろうか。
それとも、若王子先生につめよって「さっきの、どういう意味ですか?」って問いただすんだろうか。
そんなこと、まだ、わたしにもわからないから。
くるくるくるくる、舞台のうえで、まわりつづける。
初掲 20080910
再掲 20090330 極微に訂正