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+++ごほんゆび

 先生が今日買ったのはひとつサイズが大きいスニーカーと、靴下だ。
「部活で履くスニーカーがダメになっちゃいました」
 とかなんとか。廊下で呼び止められたと思うと、そんな風にとつぜん相談されて
「……で?」
 と、答えたら盛大に拗ねられた。
 正しい答えは
『じゃあ、来週の日曜日、一緒に買いに行きましょう』だったらしい。

 買い物を済ませて部屋に帰りつくと、先生はさっそくスニーカーと靴下を畳の上にならべた。自分の買い物に満足そうな顔でほほえんでいる。
「ねぇ、先生。いくらバーゲンで安かったからって、サイズ違いだと履きづらくないですか?」
 と、わたしがたずねると、先生は「平気平気。僕は立って見てるだけの人ですから」と言いながら、これも買ったしね、と真新しい靴下をひと撫でした。
「靴下を二重履きしたら、すこしくらいサイズの大きいこのスニーカーも、ちょっとやそっとじゃ脱げません」
「……って! 先生!」
 わたしは、靴下の指さきを見て、びっくりした。
「はい?」
「な、な、なーに? この靴下! ごほんゆび!」
 先生は、わたしの驚きを、自分の手柄だととらえたらしい。
「珍しくていいでしょ、それ。お店のひとに聞いたんだけど、水虫にもなりにくいんだって」
 ……はぁ? いくらなんでも、それはない。年下の恋人のまえで、五本指の靴下。それにくわえて、水虫の話題?
「先生……。五本指の靴下は、別に珍しいものじゃありませんよ?」
 ため息をつきながらわたしが言うと、先生は「そうなの?」と、首をかしげた。……まぁ、猫まんまを知らなかった先生のことだ。世間知らずは、いまにはじまったことじゃあない。わたしは、まるで自分が先生になったかのように、教えるように、ゆっくりと先生に話した。
「先生。これはね、わたしたちのお父さんの世代がはく、いわゆるオヤジ靴下なんです。こんなの恋人がはいてるのみたら、ほとんどの女の子は、100年の恋だって一気に氷点下になっちゃうと思いますよ?」
 すると、先生は、まさに氷点下の世界にいるかのようにぷるぷると震えて首をすくめた。
「やや。それは困る。封印、封印! こんなことで君に捨てられたくないです」
 小さくひとりごちながら、その靴下をひきだしの奥底にすぐさま、しまいこんだ。

 しばらく雨が続いた。
「もう、六月ですからねえ。洗濯物も乾かなくて」
 陸上部員たちと体育館に向かう渡り廊下を歩きながら、先生がため息をついた。
 一人暮らしの先生にとっては、この長雨は、けっこう切実な問題なのだろう。我が家みたいに乾燥機があれば別の話なんだろうけど、先生の部屋にはもちろん、そんなものはない。むしろ、洗濯機があることが奇跡的なほどだ。
「さて、と。今日はストレッチでもやりますか」
 体育館の入り口で、先生が宣言した。
 今日は久々の部活だ。雨続きでグラウンドが使用できない我が陸上部に、三日に一度、一時間だけの、体育館使用の割当日がやってきたのだ。
 バスケ部と剣道部が床を揺らす体育館のなか、わたしたち陸上部員は、すみっこのあたりに場所をもらって円陣を組んで床に座った。
「さぁ、今日はストレッチですからね。ふたりひと組になってください。あ、一人余りますね……。じゃ、小波さんは僕と組みましょう」
 先生の多少強引な仕切りに、あえて文句を唱える人もいない。
 部長の号令でさっそくはじまったストレッチ体操の第一段階は前屈運動だった。
「いたいっ、先生、痛いですって……」
 公式に堂々とふれあえることが嬉しいのか、先生はすこし調子に乗ってわたしをおさえつけてくる。
「さ、ほら、つま先をしっかり持って。ほら、がんばって」
 そう言いながら、先生はわたしの背中を強く押す。わたしの訴えを、先生はぜんぜん聞いてくれない。
 うう、あとでぜったいに復讐してやるんだから。
 そのうち、交代の時間がやってきた。はじめのうちは「先生は顧問ですから見てるだけでいいです」と逃げ回ったけれど、わたしの半袖からのびる腕を先生のほっぺにわざと当てたら、急におもしろいくらいおとなしくなった。……わかりやすい人だなぁ、と思う。
 わたしは、従順に足を伸ばして前屈みになった先生の背中にここぞとばかりに乗りかかって、おもいっきり押してやった。
「……うあ、あ……。痛い、いたいですっ!」
 先生の遠慮のないうめき声が体育館にひびいた。
「ほら、しっかり。つま先を持ってください! がんばって」
 わたしは、さっき先生に言われた通りのことを、そのまま返した。
「小波さんのいじわるぅー」
 先生の情けない声に、部員のみんなもくすくすと笑った。それだけじゃない。バスケ部も、剣道部も、こちらをちらちら見ながら、先生の涙声に笑いをこらえている。
 ちょっと、かわいそうかな。そう思って、わたしが先生の背中から降りたしゅかんだった。
 わたしと先生の目の前を、重力に逆らって、なにかが下から上に、飛び上がった。
「え……?」
 よく見ると、それは先生の右足のスニーカーだった。先生がつま先をあまりにもしっかりつかみすぎていたせいだろう。体操が終わったときの反動で、サイズ大きめのスニーカーは、かかとから離れて空中に飛び上がったらしい。わたしと先生は、スニーカーの行方を目で追った。先生の動向に注目していたほとんどの人も、宙を舞ったスニーカーを見ていたと思う。
 だけど、なかには先生の足のつま先に注目した人も、いた。
 即座に突っ込んだのは、部内でもひときわの賑やかさで目立つ男子だった。
「若ちゃん、なんだその靴下!」
 皆の視線が先生の足先に集まる。そして、わずかに遅れて笑いも集まる。
「若サマ~、それはないです」
「あはははは、若ちゃん、若く見えてもやっぱりおっさんだなァ」
 そして、笑いの間を縫うようにして、
「……やだぁ、いくら若サマでも、幻滅かも~」
 なんて、こそこそ声まで聞こえてくる。
 そう。先生が、スニーカーのしたに履いていたのは、例の、五本指の靴下だった。
「……その、洗濯物が乾かなくて。あの、だから……」
 先生が口ごもると、みんながいっせいに大声で笑いはじめた。
 バスケ部も、剣道部も、もう、こらえきれないらしい。アハハと声を立てて、笑っている。
 みんなに笑われたのが悲しいのか、シュン、とうなだれた先生は、ゆらりと立ち上がって、緩慢な動作でとスニーカーを拾った。
「先生、用事を思い出しました……。ストレッチで背中も痛いし、今日は先に帰ります。あとは自主練でお願いします」
 そう言うと、先生は肩をおとしたまま、逃げるように体育館をあとにした。

 部活を終えたわたしは、急いで化学準備室に向かった。
「せんせ、入ってもいいですか?」
 返事がないので、勝手に扉をあけた。机のうえに宛名のないメモが一枚置いてあった。でも、たぶん、わたし宛。
『先に帰ります』
 ……なんだか心配だ。今日は、先生のおうちにちょっとだけ、様子を見に行こう。

 先生の部屋の扉をノックしても、返事がない。まだ帰っていないみたいだった。
 さすがに制服姿のままだと、ここで待つわけにはいかない。いったん、帰って服を着替えてきたほうがいいかな、と、階段を降りようとしたそのときだった。
「あれ、小波さん、どうしたの?」
 『スーパーはばたき』のビニール袋を片手に提げて、もう片手にはサクラモチを抱いた先生が、目を丸くして、わたしを見つめていた。

「サクラモチは雨が嫌いでね。そこの軒先で雨宿りをしてたから、連れて帰ってきたんですよ」
 先生に足の裏を拭かれているサクラモチの嫌そうな顔がかわいくておかしくて、わたしはくすくすと笑った。
「で、君はどうしたんですか?」
「あ、うん。なんだか、先生が心配だったから」
「どうして?」
 先生がそう言いながら、わたしに注意を向けたとたん、サクラモチが先生の腕を思い切り後ろ足で蹴って逃げた。その様子を眺めながら、わたしは言った。
「先生、あの靴下をみんなに笑われて、ちょっと落ち込みませんでした?」
 すると、先生は、ううん、別に、と首を振った。
「え? ほんと?」
「うん。みんなに笑われたことなんて別にいいんです。だって、先生、そういう役回りなんだし」
「そんな……」
 先生は、わたしの言葉をさえぎるように、こちらをじっと見つめてきた。
「ううん。ほんとうに、他の人にはどんなふうに思われたっていいんです。でも、君にはどう思われたかが気になってしかたない。君にこの靴下を君に見られて、僕への100年の恋も冷めたんじゃないかと思ったら、心配で、心配で。いてもたってもいられなくて」
「え?」
「みんなが笑うってことは、この靴下、やっぱり変なんだなってあらためて思ったんです。だから、今、買ってきました。ふつうの靴下」
 先生はそう言いながら、『スーパーはばたき』の袋を指さした。そして先生は、一生懸命いいわけをはじめた。
「あのね、ほんとうにね、この五本指の靴下を履くつもりなんてなくて、だって君に愛想をつかされるなんて嫌ですし。でも、洗濯物が乾かなくてね、今日は仕方なく」
 
  ――こんなに年下のわたしが言ったひとことを気にして、部活を中断してまですぐさま買い物にでかけるとは。愛しいやら、おかしいやらで、胸の奥がきゅうっとあつくなった。わたしが、靴下のことくらいで先生を嫌いになるわけないのに。先生、まったくわかってないなぁ。だけど、まだこんなことで不安にさせてしまうなら、わたしはもっと、先生にちゃんと伝えていかなくちゃ、いけないのかもしれない。
「――ねぇ、先生?」
「ん?」
 わたしは、向かい合った先生の手の甲に、自分の手のひらをかさねた。
「わたしはね、ほんとはちょっと、嬉しかったかも」
「え?」
 先生はわたしの言葉に、きょとんと首をかしげた。
「そりゃあ、五本指の靴下は、おじさんっぽいけど。でもね、わたしはそんなことくらいで先生を嫌いになったりしないし」
「ほんと? でも、君こないだ、氷点下って」
「ええっと。あれは、言葉のアヤっていうか。そりゃあ、手放しで五本指をかっこいいなんて思ったりしませんよ? でもね、どんな靴下はいてたって、先生は先生だし。それに、あのときわたしが言ったのは、『ほとんどの女の子』であって、実は、わたしはそのなかには入ってないの」
「そうなの?」
「うん。それに……今日のことで、きっとライバルも減ったと思う。だから、逆に、嬉しい」
 わたしは、まっすぐに先生を見てそう言った。
 すると先生は、今の言葉を確認するように復唱しながら、すこし身を乗り出して、わたしにたずねた。
「嬉しいの?」
「うん」
「……よかった。実はね」
「はい」
「思ったより、これ、履き心地がよくて」
 先生は自分の足下を指さした。
「ふつうの靴下も、もちろん買ってきたんですけどね、その、五本指も捨てがたくって」
「は?」
「こっそり、追加で買って来ちゃいました。君に見えないところではこうと思ってたんだけど、でもこれで公認だよね? たかが靴下のこととはいえ、恋人に秘密を作るなんて、僕、嫌で困ってました」
 そう言い終わると、先生は、嬉しそうにニコニコとほほえんだ。 
 ええ!? それは、嫌! っていうか、わたしは先生が五本指靴下をはくことが嬉しいんじゃなくて、ライバルが減ったことだけが嬉しいんだけど! 気づけばすっかり、先生にとって都合のいい展開になっている。また、してやられた!
 でも、この流れで、今さら嫌だなんて、とてもじゃないけど、言えるわけがないのだ。

 じゃあコーヒー淹れますね、飲んでいくでしょう? と晴れ晴れした顔で言いながら台所に立った先生の足下は、五本指靴下で覆われている。
 先生のその姿をみて、わたしはふと、思った。先生は、わたしが大人になる速度とおなじスピードで、『おじさん』になっているのかも。おじさん。うん、おじさんだ。
 だって、そうだよね。考えてみたら、もう、エエ年だもんね……。去年の先生のお誕生日にこっそりと聞いた年齢を思いだして、わたしはしみじみと納得をした。
 窓ぎわには、ピンチハンガーにつるされて部屋干しされている、何組ものふつうの靴下。
 それを見ていると、急にわたしのなかに妙な使命感が芽生えはじめた。
 ――エエ年のおじさんに、いつまでも一人で洗濯させてちゃ、いけないのかも。 
 わたし、はやく大人になろう。そして、先生とふたりでここに住むようになったら、乾燥機を買ってもらって、わたしが先生の靴下を洗濯してあげよう。それから、先生の靴下はわたしが買おう。そして、わたしが選んだものをおとなしくはいてもらおう。けっして、ごほんゆびの靴下なんて、買ってあげない。
 わたしは、ほの暗いリノリウムの床のうえで白くすべる先生の大きなかかとを眺めながら、『だから先生、はやくわたしをお嫁さんにしてね』と、こころの中で、ちいさく、ちいさく、つぶやいた。
 そして、台所でマグカップを選んでいる先生の背中に向かって、言った。
「来週の日曜日、ふたりで買い物に行きましょう」
 手始めに、サイズの合ったスニーカーは、わたしが選んであげようと思う。 
 
 
 
END

200905
 

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