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+++五月の広い空

 
 


 今日も美奈子は若王子に頼まれた化学室の掃除をおこなっていた。
 二年目ともなれば手慣れたもので、もう、一年生のあの五月のような、とんでもない失敗はしたりしない。
 ――あの、失敗。
 実験道具を片付けようと、踏み台に載ったままキャビネットの上段に手を伸ばしたとたん、バランスをくずし、若王子の胸のなかに倒れ込んでしまったのだ。それだけでなく、いっしゅん、くちびるを触れあわせてもしまった。
 この銀色のキャビネットに向かい合うたび思いだしてしまうことがらではあるけれど、これも二年目となれば慣れたもので、その記憶が脳裏をよぎっても、さしたる動揺もなく、美奈子は手際よく実験道具を収納してゆく。
 メスシリンダーは、棚の奥に。ビーカー大、小を背の順にそろえる。ひきだしには、スポイト、スパチュラを整理して、ならべた。
 そのうちふと、手が止まった。丸底フラスコ。これは、キャビネットの最上段に片付けるべき道具であった。
(どうしてよりによってこんな不安定なかたちのガラス製品をこんな上のほうに配置しているんだろう。あぶないのに)
 こころのなかでわずかに化学教師をなじりながら、美奈子は、踏み台をもとめて化学準備室をたずねた。
「先生、踏み台、貸してもらっていいですか?」
 美奈子が声をかけると、若王子は資料から目を離し、首だけを傾けて彼女のほうを見た。
「なに? 手が届かないの?」
 はい、と美奈子が答えると、若王子はペンをデスクに置いた。
「じゃあ、先生、手伝います」
「先生、お仕事中ですよね。だいじょうぶです。踏み台があれば、わたしひとりでなんとかなりますから」
 若王子はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「いいよ、ちょうど一段落したところだし、手伝います。僕は君よりこんなに背が高いから、案外役にたつと思うよ?」
 こんなに、と言いながら、若王子はすこし胸を張り、美奈子にむかってにっこりと優しげにほほえんだ。

「せ、先生……。これ、は……?」
 動揺に、美奈子の声がゆれた。なぜなら、若王子の両腕は美奈子の腰にまわっており、からだ全体を抱きかかえるようにして、持ち上げられているのだ。
「ん? だって、こうでもしないと、一番上に手が届かないでしょう? 君は以前、踏み台に載ってもそこに手が届かなくて、そして、落ちた。違う?」
 たしかに若王子の言うとおりだ。だが。
「せ、先生が、踏み台に載れば、上まで、手が、とどくんじゃないですか……」
「わざわざ踏み台を出すのは面倒です。こうしたほうが早いよ。ね? いいから、はやく、片付けましょう」
 子どもを説得するかのごとく口調で言われて、美奈子は丸底フラスコを、キャビネット上段に並べた。実験班分の、六つ。
 震える手から、ガラス製のフラスコがこぼれ落ちないように、慎重に作業した。たった六つ。されど、六つ。
 永遠かのように長く思える時間を終えれば、それはほんの一分二分のことであった。
 美奈子はふう、と息を吐く。
「終わりました」
 だが、若王子は、美奈子を床に降ろさない。
「せんせい?」
 美奈子は、持つべきものを失って不安定に浮いた両手を、若王子の肩においた。
「ねぇ、せんせい、降ろして……」
「ダメ」
「……なにを」
 言ってるの、と、たしなめようとしたら、ひゅっとからだを落とされた。
「きゃっ……」
 反射的に美奈子は、若王子の首に強く両腕を回し、しがみついた。そのいっしゅんの隙をつき、若王子は美奈子を自分自身の白衣の胸に覆いこむ。
「早いものです」
「……なにが」
「あれから一年たって、僕らは、こんなキスが出来る関係になりました」
 若王子は、美奈子のくちびるに、自分のくちびるをやさしく押しつけた。
 いっしゅん美奈子はおどろいて身をかすかにひいたものの、若王子の首筋に回した手は、ゆるめなかった。美奈子は恋人の胸に埋もれたまま、言う。
「先生、丸底フラスコは、棚のいちばん上におくとあぶないと思います」
「……そうだね。じゃあ、明日、キャビネットのなかの配置換えをするから、また、明日の放課後も手伝いにきてくれる?」

 ――踏み台から落ちたあの日から、ちょうど一年。五月の空は、ふたりを祝うかのように、高く、あおく、ひろがっている。きっと明日も、晴れるだろう。

 
 
 
おわり

2009 5 17

00:00