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+++せんぷうき

 


 暑いからいやだ、と、白衣の腕から逃げるわたしに業を煮やした先生が化学準備室に持ち込んだのは、扇風機だった。
「これで、どう?」
 切れ長の瞳をうれしそうに細めた先生に向かって、わたしは細くため息をつく。
「どうっていわれても……」
 ――羽が回っても、湿度の高い生ぬるい空気がかきまわされるだけで、いっこうに快適にはならない。
 そもそも当の先生だって、ちっとも涼しそうには見えない。あいかわらず額に汗をかいて、青いシャツの袖口をまくりあげたまま頬を紅潮させている。

 それでも、わたしたちには場所がないから、不在のふりをするために、窓にもドアにも鍵をかけ、息すらも殺して、ここに二人で隠れるしかない。
「暑そうだね? ごめんね、扇風機、ほとんど役に立ってないね」
「はい。先生も、暑そう」
「うん、暑い。……じゃあ、服、脱いじゃいましょうか?」
「……!?」
「あ、ごめん。冗談です」

  ――先生の言葉に腹をたてて、腕から逃れようとするわたしに、扇風機からのぬるい風が吹きつけていた。

* * *

 大学の授業が早く終わる日はポストの中に貼り付けてある合い鍵を使ってアパートの部屋に入り、先生の帰りを待つ。わたしたちのなんてことない日常だ。
 少し年は離れているけれど、カップルとしてはいたって普通。波瀾万丈だった高校の頃に比べると、ごくごく平和な日々を重ねている。
 ある日、帰ってきた先生は、両手に大きな荷物を抱えていた。
「あ、扇風機」
「そう。持って帰って来ちゃいました。はね学の化学準備室、明け渡すことになったから」
「……へ?」
 首をかしげたわたしに、先生は説明をはじめる。
「実はね、来月から一流大学で働くことになったんです。あ、もちろん今まで通りはね学でも教えますよ。でもね、準備室に他の先生方も出入りするようになるから、私物は持って帰りなさいって、教頭先生が口を酸っぱくしていうんですよ。そりゃあ僕だって私物くらいはちゃんと持って帰るつもりで……」
「ちょ、ちょっと待って、先生!」
 放っておけば本筋に関係ないことを延々としゃべり続けそうな先生の言葉を遮って、わたしは尋ねた。
「そんなことより、一流大学で働くって……。それって、うちの大学で教えるってことですか……?」
 わたしの剣幕をかるく受け流して、先生は昔からの変わらぬ口癖で答える。
「はい。ピンポンです」
「えええっ! ま、またどうして、よりによってうちの大学で……」
「え、だって君がいない学校生活に僕が耐えられるわけないじゃないですか」
「!?」
「まあ、それは八割本気の二割冗談ですけど。実は僕は専門的な分野の知識に長けていて、けっこう前から一流大学の講師にならないかって勧誘されていたんですよ。ほら、覚えてない? 花椿さんと僕が、廊下でいろいろ話していたこと」
 言われてみれば、たしかに思い当たるフシがある。
 ……なるほど、あの怪しさに満ちあふれたやりとりはこういうことだったのか。
 それにしても。
「だからってわざわざまた、教師と生徒に戻らなくても……! 卒業してやっと、堂々とつきあえるようになったのに~!」
「ハハ。慣れた環境でしょ。あ、そうだ。アレ、研究室に運んでおきましたから」
「アレ?」
「うん、冷蔵庫。あとは、自作のコーヒーメーカー。だから、たまには遊びに来て下さいね」
「……大学で、そんな勝手なこと、していいの?」
 はね学は私立の学校だったし、先生はわりと同僚の先生方からも『若王子くんなら仕方ないねぇ』で済まされていたようなところがあった。だから高校では多目にみてもらっていたとしても、公共性の高い大学の研究室に私物なんて……。しかも、これから勤務をはじめる新人だというのに。果たしていいのだろうか。
「そこはね、ホラ、いろいろと。僕はこう見えても、勤務にあたっていろいろ条件を出していい立場でしたから」
「ハァ……」
 出した条件が、冷蔵庫の私設……。
「だから、ね。大学でも君と一緒に、めいっぱい青春です!」
 うれしそうにニコニコ笑う先生を見ていたら言いたいことは山ほどあれど、まあいいか、という気にもなってくる。
 こうなったら、わたしも一緒に楽しんだほうが得なのかも。
「わかりました! 大学でも、青春ですね」
 わたしが言うと、先生はさも嬉しそうに、目尻にできる笑みの皺をいっそう深めた。
 それを見て、青春っていうには、まあわりと年だけどね、などと思ってしまったのはナイショだ。

 不意に、ぶおん、という羽音がきこえた。
 先生が、扇風機のスイッチを入れたのだ。
 部屋に入る夕方の涼しい風を拾って、羽が空気を切りはじめる。
「あれ、涼しい」
「そりゃあ、扇風機ですから」
「……でも、わたし、扇風機にはあまり涼しいイメージがなくて」
「あのときは、状況が状況でしたからねえ」
「……また、あんなふうになるの?」
 不安げに尋ねたわたしの頭を、先生がそっと撫でた。
「大丈夫。研究室にはクーラーがついてるから」
「そういう問題じゃなくて」
「と、言うのは冗談です。学長や先生方には、君とつきあっていることはあらかじめ言ってありますから、大丈夫」
「……学生と付き合ってる講師なんて、いいの?」
「だから、僕はこう見えても、いろいろ条件を出せる立場だったんですってば」
「……そっか」

 ふと、開け放したままの窓のほうを見上げると、朱色の空に浮かんだ雲の縁を金色の光が染めている。
 次にこの部屋にくるときには、風鈴を買って来ようと思った。
 夏の夕方の空の色をよく映す、透明なガラスでできた、風鈴を。
 今年の夏は、もう、窓を閉めたりしなくていいのだ。


END

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