ざあっと葉ずれの音がして、風が窓を打ちつけた。急に手元が暗くなったことを不審に思って窓の外に視線をやれば、空が一面、暗い雲に覆われている。
――夕立が、来る。
廊下の窓を開け放していたことを思い出し、僕は生徒たちから提出されたノートのチェック作業を止めてたちあがった。
安い教員用の椅子がギギギ、ときしんだ音をたてた。椅子の背にかけた白衣が、パサ、と音をたてて床に落ちる。なにもかもが不穏な空気に満たされて、かすかに胸がざわついた。
いままで、僕はそんなことに敏感な人間じゃなかったはずだ。予感や気配、というものは笑い飛ばしてきたはずだった。
落ちた白衣をひろい上げて広げると腕を通した。そして、教室を出るときに蛍光灯のスイッチを押す。
天井からパチン、とはじけるような音がして、ニ、三度のフラッシュのあと、教室のすみずみにまで光がゆきとどく。
明るすぎるその光は、かすかに窓の桟に積もった埃だとか、手入れをしていない骨格標本の汚れだとか、必要がないものまでを一気に照らし出した。
廊下に出てみれば、開け放した窓に寄りかかるようにして外を見ている女子生徒がいた。僕は、彼女を驚かさないようにしずかに声をかける。
「水島さん、今からひと雨来そうですよ? 早く、窓を閉めて。君も帰らないと」
一瞬、彼女が身じろいだ。そして、憂いを秘めたため息をつきながら、彼女は僕をふりかえった。
「若王子先生……」
彼女は、僕が受け持つ生徒のなかでも、とびきり魅力的な容姿をしている、と思う。
青ざめた顔が曇天の色をうつして、ぞっとするほどに美しい。人の美醜にはさほど興味がない僕ですら、そう思うのだ。同世代の男子生徒たちには果たしてどう映るのだろう。彼女の人気のほどは、あらゆる方面から僕の耳にも届いていた。その彼女が、今、僕の目の前でわずかに肩をふるわせている。
――見つけたのが僕でよかった。
そう、思った。きっと、男子学生たちが彼女のこんな姿を見たら、ほぼ百パーセント、恋に落ちてしまうだろう。切ない恋に苦しむ愚かな男は、僕だけで充分だ。
水島さんは僕の名前をよんだきり、黙ったままで口びるを噛んでいる。ふと、彼女は具合が悪いのではないかと心配になった。
「ねぇ、水島さん、なんだか様子が変だけど、平気?」
僕が問うと、彼女はなにもこたえず、ふたたび窓の外に目をむけた。
三階の端にある、化学教室前の廊下からは、校庭が一望できる。彼女が、見つめている先を、僕も見ようと窓に近づいた。そして僕は、ちいさく息を飲んだ。
そこには、僕が恋し、いつの日かこの手中にほしいとひそやかに願う少女の小さな背中があった。そして、そのとなりには、赤い傘を手にした、金色の髪を持つ少年がならんでいる。
水島さんが、僕をふりあおいで、弱々しくほほ笑んだ。
つよい風が僕たちに向かって吹きこんできた。瞬間、大きな雨粒がひと粒、コンクリートの廊下の床ににじんで色を変えた。
あ、とふたりして声をあげた。その声を合図にしたかのように、なにもかもを押し流すような強い雨が視界を一気にぼやかした。
あわてて窓を閉めると、バタバタバタ、と激しい音が廊下のしじまを破る。ホースで水をかけたように勢いよく窓を洗う雨の向こうに、ちらりと赤い花が咲くのが見えた。あれは花じゃない、傘だ。あの少年が、彼女のために開いた、傘。一瞬でも、あれが花に見えるなんて、僕は、いったい、どうしてしまったんだろう。
「こうなったらしばらく外に出ないほうがいいです。きっとこれは夕立だから、少し待てば止むと思います。よかったら」
ここまで言うと、水島さんは口のなかでくす、と笑って「コーヒーですか? いただきます」とこたえた。
自慢じゃないけれど、放課後に僕が淹れるコーヒーは生徒たちに人気がある。フラスコで沸かし、ビーカーをマグ代わりに使う、すこし特殊なものだ。
しかし、入れものが少し風変わりなだけのコーヒーがいったいどうして人気なのだろう、と疑問に思っていたところ、どうやら一部の生徒が「頭脳コーヒー」だと勘違いして吹聴してうわさを振りまいたらしい。
でも、実は、頭脳コーヒーは特別な日にしか、淹れない。こうして普段淹れるコーヒーは頭脳コーヒーじゃあない。普通のコーヒーだ。
だけど、そのことは、人に聞かれない限りは種あかしはしない。黙っていることは嘘ではないし、罪でもない。学生たちが期待し、喜ぶのなら、その沈黙を僕は守ろう、と思ってしまうのは、僕がずるい人間だからなのだろうか。
僕は、水島さんを化学教室に招きいれて、椅子にかけるようにとうながす。
「好きなところに座ってください。先生、準備をしてきますから」
自分の部屋だと思ってくつろいでくださいね、と僕がおどけて言えば、水島さんは髪に手をやりながら、「おかまいなく」とつぶやいた。
お互い、ビーカーを手にして、向かい合う。水島さんの制服の肩に、長くて綺麗な黒髪がかかる。蛍光灯のあかりをうつして、波打つように濡れて光る。陽射しをうけて流れる、川のようだなと思う。17才が持つ体には、暗いものがなに一つない。
「ねぇ、若王子先生」
「なんですか」
水島さんは、ビーカーに白いハンカチを巻きつけて、両手で支えながらひとくち、コーヒーを口にふくんだ。
その行動が美しくて、茶道をたしなむという彼女のプロフィールを思い返した。なるほど、和のたしなみには無駄がない、とぼんやり考えた。
「わたしね、美奈子さんは、若王子先生のこと、好きなんだと思っていました」
いきなり切り出されて、僕はなんと返せばいいのかと瞬間、迷う。この、17才という年齢の人間が僕にぶつけてくる素直さに感心する。そして僕がだまったその一瞬の沈黙のすき間に、彼女は言葉をねじこんできた。
「だから、わたし、彼女によくメールしてたんです。若王子先生がすてきだなぁ、っていう内容のメール。彼女と、恋の話がしたくて……」
いったん、言葉を切る彼女のはなしに、
「や、それは光栄だなぁ。うん、それで?」
と、僕はあいづちをうつ。
「それを読んだ美奈子さんったら……」
水島さんがため息をつきながら、僕に一冊のノートを僕に差し出した。指先まできっちりとそろえて、すす、とすべらせる手の甲は、人形のもののように青ざめている。
「ふふ、おかしいでしょう? 彼女ね、わたしが若王子先生を好きだ、なんて誤解しちゃって。今日の提出期限に間に合わなかったこのノート、預けられちゃった」
ノートの表紙には、揃った文字。いとしい人の名前がつくる文字の形状は、なんと美しいものだろうと感動する。
水島さんは、ずっとほほ笑みをたたえてはいるけれど、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「美奈子さん、やさしいから。きっと協力してくれた、つもりなんです、よね」
僕にとっても、水島さんにとっても、不幸なだけの彼女の勘違い。僕は、目の前のノートを手元にひきよせた。
「まったく、小波さんは…… 提出期限を守れたためしがありません。水島さん、わざわざ届けにきてくれてたんですね。ありがとう」
水島さんのつらそうな姿にいたたまれなくなった僕が、話題を逸らすようにそう言うと、彼女は濡れたような瞳で僕をまっすぐ見つめてきた。その迫力に、僕はかすかに背中を引く。
「若王子先生。おねがい」
「は、はい?」
「みなこさんを、あきらめないで」
突然の振りに、感情をごまかす術を忘れた。率直で、未完成な情熱の前には、大人の節度なんて役に立ちもしない。
彼女の言葉に、僕はうなずく。
「大丈夫です。先生、あきらめません。こう見えてもね、先生、案外粘り強いんです」
躊躇もせず、生徒の前であっさりそう答えた自分自身に驚いた。自分をつくろうことすらもできないほどに、僕は彼女に巻き込まれているのだと知った。言わなくていいことまで、言ってしまう。
これが、恋だ。恋が僕を変えてしまう。
恋、という言葉を意識すれば、胸の奥に咲いた、赤い花がちらちらと揺れる。その花の色が僕の胸をひどく苦しくさせる。
僕は手元にある、小波さんのノートをひらいた。
明らかに間違っている解釈が目にとびこむ。僕は胸に差した赤いペンを抜きとり、そこに小さく星のしるしを描く。その星を塗りつぶしたら赤い花のようにみえた。矢印を引いて、メモをつけたす。
『明日の放課後は補習です 若王子』
僕は水島さんに、そのノートを託す。
「これを明日の朝一番に、小波さんに渡してください」
そうことづけると、彼女は、真剣な顔をしてうなずいた。
「それから、ノートの提出期限は守ること。やむなく守れなかった場合は、ちゃんと自分で提出すること。小波さんに、先生がそう言ってた、って伝言してくださいね」
つくろうように担任教師の顔をみせれば、彼女は大人びた笑顔をみせた。
「水島さん」
部屋を出る寸前の彼女を呼べば、ふりむいて首をかしげる。やっぱり、きれいだ、と感心する。
「あのね、実はこれ、頭脳コーヒーじゃないんです」
ビーカーの底に数センチ残ったコーヒーを指差しながら、手短にその理由を話すと、水島さんは、今日はじめて声をたてて笑った。
そして、彼女が去ってふたたび僕はこの部屋で、ひとりになる。
思ったより早く、雨があがった。窓辺に立てば、鮮やかな夕陽のなか、海に向かって、紫いろの雲がたなびく。
もう、あの赤い花はしぼんでしまっただろう。
永遠に咲きつづける花など、ない。
ひとみを閉じると、ノートのなかの赤い星が、まぶたの裏にゆらめいた。
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20080923初掲
201008 再掲