(ほーんと、退屈……)
放課後の教室の窓際に立ち、暗い空を見あげて、ちいさくため息をついた。
ここしばらく続いている雨のせいで、日々の練習は激減していた。体育館での練習もあることにはあるけれど、それでも応援部への割り当ては週にたったの二回だ。日頃のきつい練習がこんなにも減ってしまうと、退屈をもてあまし気味になる。
(つまんないから、先輩でもからかいにいこっ!)
そう決めると、僕は三年生の教室がある東棟に向かって歩き始めた。
若王子学級をひょいっとのぞき込むと、さっそく僕に声がかかった。
「あ、天地クンだ~」
「あのお、小波先輩、います?」
上目遣いで、ちょっと甘えた声を鼻にかけると、僕に声をかけた女の先輩は「あれえ、さっきまでいたんだけど……。カバンはあるから、ちょっとどこか行ってるだけなんじゃない?」と、すこし、体をくねらせた。
――45点。
ヘンな媚びを売ったら可愛い顔が台無しだよ、と、目の前の先輩に点数をつける。
「あ、そうだ、天地くんー、もしよかったらさぁ」
――マイナス5点。
語尾を伸ばしてしゃべる女の人、みっともないから、僕は嫌い。
だけど、もちろん僕はそんな気持ちをおくびにも出さず、首をかしげてほほえんでたずねる。
「なんですか?」
「今日の午後は調理実習だったのぉ。ね、カップケーキ、食べない?」
――わっ! プラス、10点!
なんたるラッキー。今日のおやつをゲットだ。世渡りなんて、楽勝、楽勝。
僕はにっこりと笑って、彼女が差し出したすこし不格好なチョコがけのカップケーキを受け取った。食べ物は、姿かたちじゃない。味で勝負、なんてね。ま、本音を言うとかたちもいいにこしたことはないけど、贅沢言ってないでありがたくいただかなきゃ。
「ありがとうございます。これ、おいしくいただきますね! では、失礼します、50点の先輩」
僕が、とっておきの愛されスマイルでほほえむと、彼女はすこし首をかしげた。
「50点て、なあに?」
「ん、なんでもありません。では!」
わずかな余韻を残すほどには甘く、でも、去り際はきっぱりと。
小波先輩がいないこんなところには、もう用事なんてない。僕はカップケーキを片手に、若王子学級に背を向けた。
(さて、と)
このケーキ、どこで食べようかな。
教室になんて持って帰ると、きっと、食べ盛りのクラスメイトがたかりにやってくる。さらには女子たちが『誰からもらったの!?』なんてつめよってくるに違いないから、面倒くさい。
僕は、一人きりで食べられるような場所を探すことにした。
いつもの音楽室にしようかな。でも、こないだ食べこぼしをそのままにしておいて、針谷先輩にしかられたばっかりだから、さすがにそこはヤバいよね。
じゃ、応援部の部室……? それはありえないな。狭いし、散らかっているし、それに、雨のせいで湿気がこもってたらきっと匂いだって最悪!
うーん、どこか他に空いている場所はないかな?
そうだ! 視聴覚室なんてどうだろう。あそこなら誰もいないかもしれない。
僕は、視聴覚室がある特別棟に歩みをすすめた。
渡り廊下をひたひたと歩くと、薄い水滴におおわれた床に僕の足跡が出来た。滑らないように慎重に歩く。
このごろは湿気が多くてイヤになる。
僕のコンプレックスのひとつでもある、ゆるいウェーブのかかった天然パーマがよりいっそうカーブを増し、さらに男らしさからは遠のくような気がして、雨の日は、やっぱ憂鬱。
あーあ、もっと男らしく生まれてきたかったな。背ももっと高く、手のひらなんて、先輩のほっぺたごと全部覆い隠せるくらいに大きくて、そして、髪の毛は強くてしっかりとした、濃いストレートで……。たとえばそう――
「……! あ、志波先輩!」
僕の視線の先には、たったいま脳裏に思い描いた、あこがれの先輩の背中があった。
「志波せんぱーい!」
「ん……?」
僕の呼ぶ声に気づいてゆっくりと振り向いた志波先輩は、今日も最高にかっこいい。天気のせいなのか、はたまた時間のせいなのか、すこし眠たげな表情をしているのも、たまらない。男に生まれたからには、僕もいつかはこんな人になりたい。
「……おまえ、たしか、天地とか……言ったか?」
低くて強い声が、僕の心臓を射る。か、かっこよすぎ……。
「はいっ! 覚えていただいていて、光栄です! 志波先輩、野球部の今日のトレーニングはお休みですか?」
僕が聞くと、彼はめんどうくさそうに息を吐く。
「ハァ。そうだ。これから視聴覚室で、他校試合のビデオを見る……。眠っちまうかもしんねぇ……」
……え……? 視聴覚室は、野球部が使うの? じゃ、ダメじゃん。
(雨のバカ!)
なんて思ったけれど、まぁ、雨も悪くない。偶然とはいえ、こうして志波先輩とお話が出来たし。
なにより、僕と先輩の出会いだって雨の日だった。
僕はあの日以来、雨がそんなに嫌いじゃない。雨は僕を退屈や憂鬱にもするけれど、ラッキーなことも少なくない。
雨の日に点数をつけるとしたら、なんだかんだと、70点くらいになるのかも。
(さて、視聴覚室がダメと、なると)
僕は、視聴覚室のとなりの家庭科室を覗いた。クッキーでも焼いているのだろうか、調理部が、廊下いっぱいにバニラの甘い匂いを漂わせている。そのとなりの被服室をのぞけば、手芸部が熱心に縫い物をしている。被服室の横には昇降階段があって、さらにそのとなりには美術室がある。ここはのぞかないでも、たぶん美術部がもくもくとデッサンをしているはず。じゃあ、そのとなりの物理室はどうだろう。
『現像中につき、立ち入り禁止!』
なるほど、カメラ部が使っているのか。その向かいにある生物室……は、静かで、誰もいなそうだ。だけど、ホルマリン漬けのわけのわからない標本の前で食べるだなんて、せっかくのカップケーキもだいなしだよね。うん、ここはやめておこう。じゃあ、化学室なんてどうかな。ホルマリン漬けに比べたら骨格標本くらい、かわいいもんだ。
僕は、化学室の引き戸を、そっと横に滑らせた。
思った通り、誰もいない。教室全体をさっと見渡すと、さっそく、黒板わきにたたずんでいる骨格標本と目が合った。
(うっ、不気味……)
曇天のせいで、いつもより薄暗い教室の中で、その存在感は際だっていた。でも、それをのぞけば静かで清潔で、まぁ、ものを食べる環境には悪くない。
僕は、骨格標本から目をそらしながら窓際まで進んで、適当な椅子に腰をかけた。そして窓の外を見下ろした。雨の日の校庭にはひと気がなく、濡れたグラウンドがいつもより二段ほど、濃い色に沈んでいる。
(先輩、どこに行っちゃったのかなぁ……)
先輩の笑顔を思い浮かべながら、カップケーキをひとくち、かじる。
「え……っ!?」
口の中に衝撃が走った。一瞬、なにが起ったかわからなかった。しかし、次の瞬間、このケーキのあり得ない苦さを理解して、僕は思わず声をたてた。
「にっがーい! なにこれ、マイナス50点!」
チョコレートだと思っていた部分は、たんなる焦げ目だったみたいだ。習いながら作ってどうしてこんな風になるの? 理解できない!
せっかくこれを楽しむために、わざわざこの僕が特別棟を放浪したというのに。こんなことならこれみよがしに教室で食べて、飢えたクラスメイトどもにくれてやればよかった!
「だめだ、最悪。あのコ、これで0点になっちゃったじゃん」
悪態をつきながら大きく舌打ちをすると、カチャリ、と化学準備室の扉の鍵が回る音がした。
「?」
「なにが0点なんですか?」
「……あ、その……」
扉から出てきたのは、小波先輩のクラス担任の――もとい、化学担当の若王子先生だった。
あ、そうか。たとえ教室に誰もいなくても、準備室には先生がいてもおかしくない。うっかりしてた。
「やや。それは。今日、僕のクラスの女子が、調理実習で作ってたケーキだ。そうでしょ、ピンポン?」
「ぴ、ぴんぽん……?」
タイミングのつかみづらい話術に、僕のテンポが乱されそうになる。
――食えない人っぽい。
僕の直感が、彼をそう、判断する。
「そ。ピンポンでしょ。僕もさっき、差し入れでいただきましたよ。僕がもらったのはなかなかおいしかったです。ちなみに点数をつけるとなると、100点でした」
なに、それ。自慢? ヘンな先生。僕は、とりあえず、長居は無用と判断した。
「……ええっと。ごめんなさい。こんなところで、ものを食べて。その、失礼します」
そう言いながら、席を立つ。
そのとき、扉の向こうから女の人の声がした。
「先生! 忘れ物です。これから職員室で会議なんでしょ?」
若王子先生のトレードマークでもある白衣を手に、準備室から出てきたのは――
「……え!? 先輩?」
「天地くん!?」
びっくりまなこをくるくるさせて、先輩は僕のほうをまっすぐに見ている。僕だって驚いて先輩を見つめる。お互いがお互い、なぜ、ここにいるのかがわかっていない。
そのなかで一人、余裕のありそうな若王子先生は「あ、勝負服、勝負服。忘れてました」と、おどけた声を出しながら、先輩の手から白衣を受け取った。
そして、先輩の頭をぽんぽん、と、二回、撫でると、
「じゃ、小波さん、いってきます。ケーキ、とってもおいしかったです。あ、そうだ。今日の帰りは彼に送ってもらってください。僕は会議で遅くなるから」
まるでともすれば、新婚の夫が朝、家を出るときのようなセリフを先輩に言い残して――彼は化学室を後にした。
僕は傘をかたむけて、そっと先輩の表情を覗いてみた。でも、先輩の顔は、傘の影に隠れて、表情までは読み取れない。こちらを見て欲しくて、僕は先輩を呼んだ。
「ねえ、先輩」
「なあに、天地くん?」
「ね、さっきどうして、若王子先生と一緒だったの?」
たずねると、先輩は傘を一周だけ回してから僕を見た。
「あのね、調理実習でわたしたちの班が作ったカップケーキ、上手にできたから、担任の若王子先生に差し入れようってことになったの。それで、放課後ヒマなわたしに、その役目が回ってきたの」
「嘘!」
「どうしたの、天地くん。嘘じゃないよ?」
「だって今日は雨だから、みんな、みんなヒマなはずだよ。先輩だけヒマってことはないはずだよ!」
「ほんとだよ。わたしの班のみんなは、文化部の人たちばっかりなんだもん。手芸部の人に、茶道部の人。美術部の人もいるなぁ。ヒマなの、陸上部のわたしくらいなの」
「なら、いいけど」
……嘘。ほんとうは、ぜんぜんよくない。もっともっと、いろんなことを聞きたいよ。どうしてあの部屋には鍵がかかっていたの、とか、ぶっちゃけ、若王子先生とどんな関係なの、とか。
でも、聞くのが怖い。雨で良かった。傘で、僕の泣きそうになっている顔が隠れるから。
ああ、僕は小波先輩が、好きみたい。
(え? なに? 好き?)
僕は、自分の胸のなかに響いた、自分の言葉に驚いた。
今日先輩に会いたかったのは、ただの退屈しのぎで、からかうためで。そうだったはずじゃないの? この僕がひとりの女の子を好きだなんて、そんなこと、あるの? だってこの人は、ひとつ年上の先輩で。なにより、いつもぼんやりさんでおとぼけてて。
僕なら、もっといろんな子が選べるはず。なのに、よりにもよって、この人だなんて。
僕は、混乱した気持ちを雨粒と一緒に振り払いたくて、傘の柄を持ってくるくると回した。
飛び散った雨粒が、先輩の頬を濡らした。先輩は、つめたいよ天地くん、と小さな声で、笑った。
気づけば、小雨になっていた。傘をさすかささないか、少し迷ってしまうくらいの細い、細い、小さな雨だ。やがて、やんでしまうのだろう。明日は晴れるのかも知れない。
雨が上がる寸前の、この季節特有のぬるい湿気が僕たちのまわりを覆う。
ちらりと、先輩の腕を盗みみた。一年ぶりにみる先輩の腕は、夏の制服の袖からすこやかに伸びていて、この薄暗い空気のなかで、たったひとつの光るものだ。そのまぶしさは、神聖なものにすらみえた。
――せんぱいが、ほしい。
今、このとき、はっきりと悟った。
腕の先にぶらさがるカバンが、雨に濡れて重たそうだ。取っ手がやわらかな手のひらに食い込んでいる。
(持ってあげようか)
なんて言いたいけれど、そんなことは、言わない。
「先輩、あいかわらず、傘さすの、へた。カバン、びしょ濡れだよ?」
僕が言うと、先輩はくちびるをとがらせた。
「あいかわらずってなによー?」
「だって、入学式の日、せっかく傘さしてもらったけど、僕、ほとんど濡れてたんだよ、気づいてた?」
「え、ほんと!? ごめん! ごめんね」
――嘘。嘘に決まってるじゃん、先輩。あの日の先輩のカバンは、やっぱり今みたいに濡れていた。僕が濡れないように、最大限、傘を譲ってくれようとしたんだよね。かわいい人。
「ねぇ、先輩。そんなことよりさ、今度の6日ってなんの日か、知ってる?」
僕がたずねると、先輩は、自信満々の笑顔で答えた。
「もちろん、知ってるよお!」
「さっすが先輩!」
「当然だよお、6月6日は、天地くんの大好きな、ロールケーキの日、だよね! アナスタシアでセールがあるんだよね!」
「……はぁ!?」
思わず出した間抜けな声が、傘の中にひびいた。なに、それ。6日は僕の誕生日、だよ! 先輩のバカ。バカ! おとぼけさん!
僕がぷいっと先輩のほうに傘の背を向けると、先輩は笑いながら回り込んできた。
「うそ、うそ。ほんとは知ってるよ」
「……じゃあ、なんの日?」
「天地くんのねえ」
「なに?」
「お誕生日でしょう?」
先輩のかわいい焦らしにしてやられて、僕の頬はゆるむ。なんだ、やっぱり知ってたんじゃない。
それにしても、先輩も案外やるね。この僕を、一瞬でもひるませるなんて。
だけど、ダメ。それでも僕のほうが、ずっとずっと、うわてだよ。
「ねぇ、僕、誕生日に欲しいものがあるんだ、先輩」
「高いものならむりだよ?」
「……ううん、違うよ。むしろ、タダ」
「?」
「僕の似顔絵、書いてほしいんだ」
そう、先輩が去年、若王子先生に書いたっていう、アレ。先輩、去年、僕に嬉しそうに報告してきてくれたよね。若王子先生の誕生日に自分が書いた絵を渡したら受け取ってくれた、なんて浮かれてさ。あのときは、ふうん、なんて思っただけだったけれど、今考えると、あの時の先輩の喜び方は普通じゃなかった。
なーんだ、そういうことだったのか。僕としたことが、気づくのが遅かった。だけど、遅すぎたってこともない。まだ、僕にもきっとチャンスはあるはず。
「ええー、わたし、絵、下手だよ?」
「知ってるよ。でも、それがいいんだ。僕が点数つけてあげる」
「ひどーい、なに、それ」
ね、先輩。たとえ、それがどんな出来でも、僕は、必ず100点をつけてあげる。
そして、僕はおねだりするんだ。
――ねぇ、先輩。先輩は思ってたより、絵が上手だね。僕、美術の授業が苦手なんだけどさ、雨の日の放課後は、お互い部活もないし、デッサンを教えて欲しいんだ。だめ?
雨の日の先輩は、全部僕がもらうよ、若王子先生。あんなお年寄りになんて負けてらんない。
「年上趣味もいいけどさ、年下の魅力ってバカにならないんだよ」
小さな声でつぶやくと、先輩はきょとんとした顔で僕を見た。
先輩のピンク色の傘の向こうには、晴れのきざし。
今年の梅雨は、どうか長引きますように。僕は光射しはじめた雲間に向かって、思いっきり舌をだした。
2010/06/05
あまちくんとしばくんの関係がわりとすきです。しばくんをみて、どきどきするあまちくんのかわゆさときたら! BL的に、ではなくて、純粋にかわいいなぁとおもいます。
よけいなことを長々とすみません。あまちくんおめでとっす^^