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+++おだやかな暮らし

 
 

 
 縁側にすわっていると、なにしてるのー、と、間延びした声が部屋の奥から聞こえてきた。
「まめ、むいてるの」
 振り向かずにこたえると、やや間があって、先生がわたしの背中にすっとかがむ気配がした。わたしの右の耳のうしろから、石けんの香りがただよう。さっき、庭でふざけて土だらけになっていたから、昼風呂を浴びてきたのだろう。
「今夜は豆ごはん?」
 うん、とこたえたわたしのうしろからすっと長い腕がのびてきて、かたちの良い指が、ざるの中からひとつ、豆のサヤをつまんだ。
「むくの、手伝いましょうか?」
「ううん。大丈夫。先生は収穫をたくさん手伝ってくれたから、あとはわたしがやります」
 わたしが言うと、先生は指さきで豆の弾力をはかるかのような所作をして、それから壊れ物を扱うような丁寧さでざるに戻した。ふりむけばきっと、やさしい表情をしているのだろう。
『収穫』とは言ったものの、実はそんなに大げさな作業ではなかった。ざるに半分ほど。二人分の豆ごはんにしてしまうと、それで終わりになってしまう量だ。
 それでも。
「よく育って、うれしいですねえ」
 そう、うれしいのだ。
 ふたりで住む家の庭に育った、この、緑いろのちいさな豆が。

 古い家だ。わたしが育った生家より、古い。でも、わたしたちはこのたたずまいを気に入った。土に近い床も、低い天井も、間仕切りが少ないせいでひかりがたくさん入る部屋のつくりも。
 とくに、庭が良かった。そう広いわけではないけれど、南に向き、空が見渡せ、木や花を植える程度には土地に余裕がある。ここで四季を知るにはじゅうぶんの空間だった。
 先生の職場まで、バスで十分。わたしの実家までは、自転車で二十分。そして、海まで歩いて、十五分。立地にかんしても、言うことはなかった。
『手入れをしながら、この家でのんびり暮らそう』
 ふたりでそう決めて、頭金を払い、最低限のリフォームを業者に頼んだ。それが終わると、昔から先生が住んでいる――結婚してからはふたりで住んでいた――古いアパートから引っ越しをした。
 ――記念になることをしようか?
 引っ越しを終えて半月。これから先、十年単位ではじまるローンの一度目の支払いを終えた秋の夕方、先生がそう切り出した。
「記念って?」
「たとえば植樹とか、どう?」
 先生はそう言ったけれど、しかしこの家に越したとき、すでに両親から桜の枝を、友人たちからは梅の枝をもらっていた。
「もう、木は――」
「そうでした。じゅうぶんでしたね……」
 今はまだいい。だけど、未来のことを考えると、このちいさな庭に三本もの木は、いつか負担になるかもしれない。
 先生とわたしはすこしのあいだ話し合って、結局、庭のすみに野菜の種をまくことにした。ちなみに、花の種でなく野菜の種になったのは、先生による『食べられるものがいいです』との主張によるものだ。
 記念、というには、すこしたよりない。一年で終わってしまう植物もあるだろう。だけど、種を採って毎年植えつづければいい、と結論づけた。
 その足でホームセンターに向かい、家庭菜園初級者向けの種を選んだ。それから、家に帰り着くとすぐ、ふたりで庭にしゃがみこみ、まだ固い土をほぐし、おそるおそる種を並べ、水をかけた。
 そのとき植えた種うちのひとつに、今、実をつけた、このエンドウの豆があったのだ。

 南にむいた縁側に座り、豆をむく。
 ころん、とひとつぶ、庭に転がり落ちた豆を猫が追う。
 直後、まるで、そのタイミングを待っていたかのように、背後からの石けんの香りがつよくなり、わたしの胸もとにそうっと先生の腕がまわってきた。わたしはそれをわざとペチっと音がでるようにはたいて、せんせいだめです、とちいさな声でたしなめる。
「えっ、ダメ? ちゃんとお風呂に入ったのに」
 先生がおどろいたような声を出す。
「そういう問題じゃないです」
「日曜日なのに?」
「日曜日がダメなんじゃなくって、まだお昼だからです」
 すこし強めに言うと、お昼はダメでしたかぁ、と、すこし拗ねたようなため息をつきながら、先生は畳のうえにころりと寝ころがった。横目でちらりと見やると、大きな子どものようで、その姿がいとおしい。
「そうだ、豆と言えば面白い話があるんですよ」
 気分転換をはかろうとしたのだろうか。先生が、すこしまじめな口調で、話しをはじめた。
「どんな話ですか?」
 わたしがたずねると、先生は寝転がったままながら、すうっと『教えるひと』の気配をみせた。卒業して、何年になるだろう。だのにまだ、この人はこういうとき『先生』の顔になる。わたしは、いつまでたっても、先生のこの顔が好きだ。高校生のころからの癖のようなもので、この顔を見ると、安心してしまう。もう、不安なんてひとつもないはずなのに、それでも、やっぱり。
 わたしは、豆をむく手をいっしゅんとめて、先生をじっと見つめた。
 先生はわたしの集中が自分にむいたことを悟ると、わずかに声のトーンをおとした。
「エジプトにね、古代王家のお墓があるのは君も知ってるでしょう? そのなかのツタンカーメンのお墓の埋葬品にエンドウ豆の種子があったそうです。それを植えてみたところ、きちんと芽が出て葉が出て、育ったそうです。三千年の時間を超えて。すごくないですか?」
 興味のある話だった。三千年、生きた種子。
「……それは……たしかに、すごい」
 わたしはおもわず手元の豆を、じいっと見つめた。このちいさなものが三千年先につながるかもしれない。そのわずかな可能性をつややかな緑のなかに見いだして不思議な気持ちになったのだ。はんぶんほどむき終わって、ボウルのなかで粒を輝かせる豆の実をながめていると、異国の古い王が愛した宝石のようにすら、見えてくる。
 先生は続けた。
「時代を超えて発芽させるためには、それなりの保存条件が必要でしょうけど、その条件を整えた古代の人々の智慧に驚かされます。それもすごいと思いませんか?」
 わたしはこくこくと、首を縦にふってうなずいた。すると、先生は寝ころがったままで、こちらにすこし身を乗りだした。
「ね、種を採ったあと、全部を植えないで、数粒、残して保存してみましょうか?」
「どうして? まさか、試験管に寝かせておいて、三千年後にうえるつもり?」
 わたしの問いにふっと頬をゆるめた先生は、緑のむこうにある、すこし高めの垣根越しにある青い空に目をやってまぶしげに目を細めた。
 それから、一呼吸おいて、わたしをじっとまなざした。
「さすがに、三千年後は無理だけど、でも、三十年くらいならきっと大丈夫だと思わない? 三十年後、またこの場所に、僕たちがはじめて育てた植物の、この種を植えましょう」
 おだやかな声で、先生は言った。わたしは、なんて答えたらいいのかわからず、言葉を詰まらせてしまった。
『はい』では、足りない。『それはいい考えです』と笑うのもすこし、違う気がする。
 出会った頃は、旅人のようなおもむきをただよわせていたこの人が、みずから未来を口にしてくれるたび、それがうれしくて幸せで、どんなふうに答えればいいのかわからなくなる。

 思えば、先生が、『わたしの担任の先生』だったころには、こんなに幸せな未来がくることを予想することもできなかった。先生は、いつ、この町から消えてもおかしくないような不安定さを心の底に隠して笑っていた。でもたぶん、それはかすかな気配で、それまでの先生はそのはかなさを誰にも悟らせなかったのだと思う。だけど、わたしは、気づいてしまった。先生を見つめすぎていたせいで。
 わたしが気づいてしまったことに気づいた先生は、困ったように笑った。その困った顔を見て、わたしは途方に暮れていた。
 それが、わたしの高校生活の三年間のほとんどだった。
 そのなかで、唯一、先生が『教える人』の顔をするときには安心できた。そのときだけは、先生が消えてしまいそうな不安は遠のいた。旅人の顔を忘れ、純粋に、人に教え、導くことを楽しんでいる表情で教壇に立つ姿が好きだった。
 化学の授業の時間になるたび、永遠に、先生の話を聞いていたいと思っていた。
 わたしがまだ、制服を着ていたころの話。すこし、懐かしい話だ。
 
 ――その先生は、今、わたしの隣に寝ころんでいて、ふたりの三十年後の話をしている。
 いまだに、信じられないこころもちがする。でも、こうなることははじめから決まっていたような気もする。
 わたしがしばらく答えないでいると、すこし不審に思ったのか、先生がやさしい口調でわたしにたずねてきた。
「どうしたの?」
「……三十年後だなんて。気が早い。先生」
 強がったのは、それが精一杯だったからだ。そうでもしないと、幸せすぎて、泣きそうだった。
 しかし、先生はまったく気にせず、むしろ、この返しを待っていたかのように、うれしそうに笑う。
「孫なんていたりしてね」
「……子どもだって、まだなのに?」
「だから、ほら」
 おいで、と、ほがらかにわらいながら、畳の上で、わたしのための両腕を広げる。
 この人と三十年後を。
 願わくば、三千年のあとにもつながるだろう、たしかなえにしを。不安も、怯えもない、このちいさな庭のある家で、先生とわたしは、今、むすび、育て始めたばかりなのだ。

 緑の垣根がわたしたちを人目からさえぎる、今はまだふたりだけの庭で、わたしは先生の腕のなかにそっと、身を寄せる。
 さやのなかで守られながら実りをむかえる、ちいさな豆の粒のように。
「お昼はダメなんじゃなかったの?」
「……せんせいの、いじわる」
 先生がからだを乗せてくるその重みが気持ちいい。くすくすと笑う声も、耳の奥にこそりと響いて、心地いい。
 そこでわたしは瞳をとじた。
 まぶたの奥に、ちらり、きらりと、緑のいろが残像になって揺れて、とてもきれいだ。

 
 

2010/05/30

 
本当は5月にかきあがってました。6月に出そうと思ったんですが、雨続きの気候にこの話が似合わない気がして……
けっきょく8月です。
 
平凡であることが、ふたりにとっては奇跡みたいなことです。
『あたりまえ』に倦んでしまうほどの、ありきたりな日々を笑いあいながら生きていって欲しい。根をおろして、しっかりと土について。
 
さよぼくの成分の90%は、そういうねがいでできています。
(残り10%が無駄なえろ)

 

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