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ねこびな

 
 
 春の窓の外、庭に揺れるのはミモザの花のひよこ色。ふわふわ揺れて、先生の髪の毛のさきっぽみたいにみえる。
『かわいいもの見つけたんです。今から出てこられる?』
 電話の向こうで声を弾ませて、先生はなんだかとても、嬉しそうだ。
 うららかな日ざしが町中をやさしく包みこむ午後に、大好きな恋人からのとつぜんの誘い。出かけたくないわけがない。
 だけどわたしには、誘いを受けられない理由がある。
「ダメです。だって、明日からテストですよ」
『うん、知ってます』
「知ってるならなおさらダメじゃないですか。今はラストスパート中です。今日は、無理です」
『でも、気分転換も必要でしょ? お天気もいいし、デートしません? 帰りはそんなに遅くならないようにしますから』
 のんびりのんびり、のほほぉんとした先生の声を聴くと、ちょっくらいの息抜きもいいかもなぁ、なんて思えてくるから、不思議だ。
 じゃあ、行きます、と答えてから一時間後。先生とわたしは、雑貨屋さんのショウウインドウをのぞいている。

「ね? かわいいでしょ?」
 鼻先をガラスにくっつけるようにして、先生が指さしたのは、ちいさなちいさな、猫のお雛様。ピンク色の桃のはなびらをかたどった小さな器の中に、人差し指の爪の大きさほどの猫雛様がならんでいる。ピンク色が好きで、猫好きの先生にとってはたまらないひと品なんだろう。
「わぁ、ほんと! かわいいですねぇ」
「じゃ、買ってきます」
 そう言うと先生は颯爽と店内に入って、なんの躊躇もなくその猫雛様を買ってしまった。お会計、1300円なり。
「じゃあ、おうちに帰りましょう。さっそく飾らないと」
「……おうちって?」
「僕の家に決まってるでしょう。さ、行きますよ」
「えっ、ダメですよ。だって今日は早く帰るって……」
「コーヒー飲むくらいなら、大丈夫でしょう?」
「……うーん、まぁ……。そのくらいなら……」
 だけどもちろん、そのくらいで、済むわけがない。

 先生のお部屋に入ったとたん、なんだかんだといいくるめられ、教師と生徒としては断じてあるまじき、だけど恋人同士としてはそれなりにそれらしいことをひととおり、してしまった。
 もう、明日からテストなのに! ふとんにうつ伏せたままくちびるだけをとがらせるわたしに、「君は出来る、先生を信じて」だなんて、もっとも先生らしくない下着一枚の姿で言われたって、ぜんぜんまったく、説得力はない。
 ふくれるわたしに笑いながら、先生は言う。
「まあまあ。そう拗ねないで。コーヒー飲みます?」
「……コーヒー飲みにきたんだもん……。いただきます」
「あっ、そうだ。そのまえに」
 そこで、先生は思い出したように立ち上がって、コートのポケットをまさぐった。
「ほら、これ」
 先生の大きな手のひらには、さっき買った、猫雛様。
 まるで宝物を見せるかのようにして、寝そべったままのわたしの鼻先に持ってくる。
 猫雛様は、ちょこんと並んで、招き猫顔で笑っている。なんだかとっても癒される。 
「かわいいですねえ」
 と、先生。
「はい」
 と、わたし。
「幸せそうに仲良く並んで、お似合いで、まるで、君と僕みたいです」
 ……このひとは。とつぜん、臆面もなく、こんなことを言い出すから、そのたび、わたしは言葉につまる。
 いちいち、胸がいっぱいになるのだ。

 猫雛様を窓際に飾って、わたしたちはそれをながめながら、隣あわせに座ってコーヒーを飲んだ。
「テストが終わったら春休みです。桜を見に行きましょうか。でも、君が追試を受けるようなことになったらそれどころじゃありませんけど」
「……そうなったら先生のせいですよ……」
「やや。僕のせい?」
「なーんて。もしそんなことになったら、普段からちゃんとしてないわたしのせいです。だからこれ、飲み終わったら帰りますね」
 わたしが言うと、先生はあからさまにがっかりした顔を見せた。
「……淋しいです」
「わたしもです。だけど、明日も会えます」
「でも、学校じゃこんなことは出来ないし」
 先生がわたしを抱きよせて胸におさめる。
 わたしは素直にされるがままになって、そのまま先生の胸のなかですうっと息を吸い込んだ。日曜日の先生の匂いのなかには、わたしの匂いも混じっている。明日になると消えてしまう、わたしの匂い。いつか、帰らなくていい日がくればいいのに。そして、わたしの匂いをふくんだ匂いが、先生の匂いになってしまえばいいのに。

「淋しい」って言ったのは先生なのに、わたしよりも先生の方が先に立ち上がった。
「さあ、おうちまで送りますよ」
 そう言いながら先生は、窓際の猫雛様を、そっと指さきでつまんで仕事机の引き出しの中に片付けてしまった。
「あれ、せっかく買ったのに、もうしまっちゃうんですか?」
「早く、君が欲しいから」
「へ?」
「僕はね、はやく君にお嫁に来て欲しいんです。だから、三月三日はもうちょっと先ですけど、早めに片付けちゃいます。ほら、お雛様は早く片付けないと婚期が遅れる、って言うでしょう?」
 ……気が早いにもほどがある。三月三日は来週だし、わたしの卒業までは、まだ一年もあるのに。
 なにしてるんですか、行きますよ。気の早い先生は、もうコートを着てわたしを呼んでいる。
 また来年ね、猫雛様。
 机のなかの小さな猫たちに向かってしばしの別れを告げると、わたしは玄関先の先生のもとにかけよった。

 
 

2010/03/03
  

 
まよなかめがね 中森さんちのお題『猫』をお借りしました。

ちっこい招福ねこびな様を近所の雑貨屋さんでみかけて、ふと思いついたなんでもないおはなしでした。
 
 

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