log

+++いちふじ、にたか、さんなすび 【R15】

 
 
 

 吹き荒れる吹雪のなか、若王子先生の背中を見失ったわたしは途方にくれていた。
 そもそも、こんなことになっているのは先生のせいだ。校内行事のスキー合宿の最中、わたしに耳打ちをしてきた先生は、上級者コースの頂上で待ち合わせをしよう、と提案してきたのだ。
 いくらなんでも、そんなコースを滑ることはできない、と、ひるむわたしに、いかなる自信があるのか、「君ひとりくらいなら、だいじょうぶ!」と、先生は胸を張る。その先生のかたわらには、臨時スキー教室のためにあつまった女子生徒たちがはりついていた。
「ほら、先生、こんな状態です。彼女たちをまくためにも、ね、行こう」
 わたしを臨時スキー教室に勧誘するふりをして、先生は小声で、ふたりになろうと説得だててくる。そりゃあわたしだって、先生とスキーがしたい。できれば二人で。だけど。いくらなんでも、あそこは無理。
 先生が指定するリフトの先を眺めあげてみれば、その切っ先は見事、絵に描いたような鋭角をもって氷の色に光る。わたしは戸惑いを隠さない表情を作って、山のいただきと先生の顔とを、交互に見つめた。

 けっきょく、先生の口車に乗せられて、ついでになかば強引に上級者用リフトにも乗せられて、その結果、わたしは、見事に風雪に巻きこまれてしまった、というわけだ。
 それでもはじめのうちはよかった。頂でおちあったわたしたちは、周囲を見回してふたりきりになったことを確認すると、すぐに頬をすりよせあった。眺めのよい頂上からは、遠い稜線に青々とつらなる山脈が見えた。ふだん、水平線ばかり見慣れているわたしたちには新鮮な風景だった。
「ほら、富士山も見えます」
 先生が、指をさした先にある、富士山のまぶしい白さにふたりで見入った。
「きて、よかった」
 わたしがそう言うと、
「うん。でしょう?」
 と言って、先生は嬉しそうにわたしを見つめた。
 わたしたちはすぐに滑り降りたりはせず、しばらくの間、景色を楽しみつつよりそっていた。
 粉雪をまきあげて自在にふきわたる風は、容赦なくわたしたちのからだを芯から冷やした。それでも寒さより、幸せが勝った。わたしたちは額をつきあわせ、冷たくなった口びるをついばみあい、互いの髪のなかに指をさし入れては笑いあった。
 そうこうしているうちに、あっという間に山の天気が変わった。急に太陽を隠した厚い雲は、雪の色を暗い灰色に染めた。
 先生の判断は早かった。
「雲行きがあやしくなってきました。天気が崩れると、僕にだって手に負えない。ね、すぐ戻るから、ちょっとここで待ってて。動かないで」
 そう言いのこした先生は、そのままかろやかに身をひるがえして、この直角に近いと思われるほどの斜面を、あっというまに降下していってしまったのだ。
「先生……」
 わたしは、先生をちいさな声で呼んだ。先生が、わたしを置いていくことは、まず考えられない。助けかなにかを、呼びに行ったのだろう。しかし、先生が去ったとたん、いきなり吹きつけ始めた雪は、1秒ごとに強くなる。気づけば、視界は狭まり、ほんの1メートル先すら見えなくなっていた。
 ――ホワイトアウト
 この状態では、先生が戻ってきても、わたしを見つけることができないかもしれない。
「先生……」
 再び呼んだ。しかし、耳を切るような高い風の音に巻かれて、わたしの声は千々にちぎれて雪のなかに、かき消されてしまった。

 どのくらい経ったのだろう。暴力的なほどの白い世界は、時間の感覚を失わせた。先生を呼んで、泣いて、そしてからだはどこまでも冷えてしまって、もはやこれまでか、と悲壮な覚悟まで決めた。その時だ。
「小波さん」
 たしかに、先生が、雪のなかで、わたしの名前を呼んだ。
「先生、先生、先生」
 無我夢中で大声を出しながらやみくもに手を伸ばして探るように動かすと、手袋をしたままの大きな手が、わたしを掴んだ。
 待ち焦がれた腕に必死にすがりつくわたしを、先生の両の手が、かき抱く。
「ごめんね、ごめんね」
「ひどい、ひどいよ、先生。わたしをひとりにして、ひどい」
 わたしは、先生をなじりながら泣いた。
「うん、ごめん」
 先生の大きなからだが、震えるわたしを覆いつくす。白い雪のなかで、わたしはひたむきな抱擁を受けた。不安に脅かされたその分、この腕のなかが広く感じられ、わたしは夢中になって先生の胸にからだをうずめた。
 わたしはひとしきり泣いた。先生は、その間、ずっとだまってわたしの背中をゆっくりとなぜていた。
 そして、わたしがようやく落ち着いたころを見計らって先生が切り出した。
「ちょうどいいところに、山小屋を見つけました。まずは、この吹雪がやむまで、そこに避難していよう」

 先生の案内にしたがって、慎重に雪のなかを進んだ。しかし、ここは上級コースの頂上だ。普通に歩くことすら困難なほどの斜面がわたしのあゆみを苦しめた。
「小波さん、こっちに」
先生は、わたしを斜面の上方に並ばせ、自分のふところに寄りかからせるようにして歩いた。
「これじゃ先生があぶないです」
 そう言うわたしに
「君ひとりくらいなら、だいじょうぶって言ったでしょう?」
 まるで、平坦な道を歩くかのようなひょうひょうとした言い方をして、わたしを安心させた。

 ようやく着いた山小屋には、すでに火が入っていた。
「さっきね、ここを見つけたときに、あらかじめ火をつけておきました」
 頬に赤い火の色をうつしながら、先生が微笑んだ。
 スキー場職員の休憩所なのだろうか。いかにもふだんから使われていそうな内装に安堵する。壁のカレンダーもきちんと今月のものだ。ここにいれば、最悪の事態と言うのはさけられる。この吹雪がやみ、わたしたちが外にでるときには、帰るべき道が見つかるだろう。
 安心してひと息つくと、今度は急に別の不安が陰さしはじめた。
 若王子先生と、わたしが。ふたりきりで行方不明になっていることを、誰かに訝しがられたりしてはいないだろうか? 卒業の日を近しく控えたこのごろとは言え、まだ、わたしたちの間がらはれっきとした教師と生徒のかたちだ。もしこれをほころびにして、わたしたちの関係をほかの人に悟られたら。それでなくとも、わたしたちの仲のよさを口さがなく詮索するひとたちは、いるのだ。
「若王子先生」
 わたしは、火かき棒を暖炉のなかに突っ込みながら、火の加減をみている先生を呼んだ。
「ん、いま行きます。ちょっと、待ってて」
 そう言われたけれど、わたしは先生を待てなかった。ちょっと待ってて、と言われて待たされ、そして不安にさせられた、先ほどの雪のなかのできごとを思い出したのだ。
 わたしは、先生の背中に、抱きついた。
「小波さん、どうしたの?」
「どうしよう、先生。わたしたちのことが、誰かにバレたら」
 先生はわたしを背中にはりつかせたまま、火をかきまぜつつ、言う。
「だいじょうぶ」
 先生は、そう言うけれど。そのだいじょうぶの、根拠がわたしにはわからない。
「先生。どこにも、いかないでね?」
 なぜだか、わたしの口からこぼれだしたのは、そんな言葉だった。
「どこにも、って?」
 先生は、火を見たままで、不思議そうに聞いた。
「ん……。ただ、言ってみた、だけ」
 きっと、先生が言うだいじょうぶは、ほんとうにだいじょうぶなんだろう。それは、わかる。この人は計算して、行動するから。だけど、もしかして、このだいじょうぶは――
『もしもなにかがあったら、僕はここからいなくなりますから、だいじょうぶ』
 わたしには、そう聞こえた。
 わたしの頬には涙がこぼれていた。

「いや、先生。こんなところで」
「だって、君が泣くから」
 泣くことと、この行為にどう関連があるのだろうか? 先生にキスをされて、背中を床板におしつけられながら、わたしは口先だけで無駄な抵抗をしてみせた。
「先生、みんながわたしたちを探している、かも」
「うん。そうだね。きっと探しているね」
 右の手首をつかんで、先生はわたしのあらがいを封じている。
「どうするの……? いまここに、わたしたちを探す誰かが来たら」
「だいじょうぶ」
 先生が、わたしのスキーウェアの胸のジッパーを下ろした。
「なにが、だいじょうぶ、なの?」
「まだまだ雪はおさまらないよ。ここには当分、誰もこない」
 わたしのウェアのジャケットの袖から腕を抜きもせず、先生の手のひらが、わたしのインナーセーターの裾から、肌に侵入してきた。先生の指が、すこしだけ早急なしぐさでわたしの胸の先に向かっていた。
「ね、先生……。こわい」
「ん? なにが?」
 ――ねぇ、先生の”だいじょうぶ”は、『逃げてしまえばだいじょうぶ』の”だいじょうぶ”じゃないの?
 わたしは、そう、問いただしたかった。だけど聞けなくて、わたしは言葉を涙に変えた。ぱちん、ぱちんとはぜる火の音と外を吹雪く風の音が、先生のため息をわたしの耳からさりげなく、隠していた。

 * * *

 転じて。
 今日は1月2日だ。
「君の初夢はどんなでしたか?」
 先生にそう聞かれたわたしは、高校生活最後のあのスキー合宿のときの夢を見たことを話した。
「うん、それはいい夢を見ましたね」
「……いい夢?」
 なにもかもがひどく不安だった、あの日の夢が? わたしが眉間にしわをよせると、先生は笑った。
「いい夢でしょう? だって、ほら。昔から、一富士、二鷹、三なすび、って言うじゃないですか」
 先生は、起きぬけだというのに、まったく元気だ。夕べもあんなにしたのに(しかもわたしに『ひめはじめ』だなんて、おかしな言葉を教え込みながら)、また今も、わたしをどうにかしようとしている。
「いち、ふじ」
 先生はそうささやいて、わたしを自分の下に敷く。
「ね、あのときふたりで見た、富士山、きれいだったね」
 ……そういえば、そうだった。なるほど、富士、か。
「に、たか」
 先生はそういって、 自分の頬を指さした。
「ね、僕の夢」
「たか?」
「うん。たかふみ、の『たか』です」
 ……そういうことか。
「じゃあ、先生。なすびはなあに?」
 わたしがそう聞くと、
「さん、なすび」
 先生は、わたしの右手をさりげなく取って、自分の腰にみちびいた。
「あのとき山小屋で君としたのは、ほんとにいい思い出です」
「……先生、それは、下品です!」
 おかしな冗談にあきれて、身をよじって逃げようとしたわたしを、先生はうえから押さえ込んでしまって、微笑んだ。
「君が、好きです」
 やわらいだ新年の朝日に照らされながら口づけてこられると、もう、なにもかも、許してしまいたくなる。否。実際、許した。わたしは肩のちからを抜いて、そしてそのまま瞳をとじた。
 やさしくわたしの肌のうえを這う、先生の指の動きに身をまかせた。なんねん経っても、なんどされても、なんかい、重ねても。飽きることなく、わたしは先生の指が、からだが好きだと思う。やがて、おとずれる甘やかなうずきに、自然と、膝のかしらが、はなれて開く。そして、先生がいよいよわたしに入ってこようとする。甘い期待にわたしはくうっと、のどを鳴らした。
 しかし、先生の感触の無防備さに、わたしはふたたび、(まさに物理的に)逃げ腰に、なる。
「先生! ちゃんと、つけて」
「……だいじょうぶです」
 なにが!
「だいじょうぶでもなんでも、嫌です」
 あれから、わたしたちのあいだには時間が流れ、わたしは、先生の『だいじょうぶ』を、きちんとみきわめて、いさめることができるようになっていた。
 いやいやと、首をふるわたしに先生が苦笑いをして、口づける。
「僕がだいじょうぶといえば、だいじょうぶなのに……」
 不承ぶしょう、枕元の小箱を手探りでひきよせる先生の嫌そうな顔がおかしくて、わたしは声をたてて笑った。

 

 平凡なお正月の、なんでもないはなしである。わたしたちふたりの、ながい、ながい物語のうちにある、ほんの小さなエピソードであった。今日の空は晴れて、どこまでも続いている。わたしたちの物語も、まだまだどこまでも、いつまでも、続くのである。


 
【END】

 
 
 
2009 01

00:00