ひとりぼっちでながい時間を生きてきたひと。
記念日に、いや、自分の誕生日にすら関心がなかったひと。
その人が今日、みずから率先してわたしの母に贈るプレゼントを選んでくれた。
買い物を終えた先生が手にしているちいさな白い紙袋にはカーネーションのかざりがついている。中身は、猫をかたどったブローチだ。先生はものすごく迷ってこれを選んだ。
「気に入ってくれるといいですけどねえ、お母さん」
先生の口から『おかあさん』という言葉が出て、いっしゅんだけハッとする。それからすぐに、しあわせを実感する。わたしたちはつい最近結婚をして、ようやく家族になったばかりだ。
* * *
結婚までの道のりはそんなに平坦じゃあなかった。そのなかでもいちばんのネックになったのは、先生が『ひとり』であることだった。
「高校の担任教師だったことや、年齢差があることは不問にしよう。しかし、家族のない男に、一人娘をやるわけにはいかない」
父はみじかくそれだけを告げると、先生に背を向けて、以降、かたくなに門を閉ざした。
『家族がないこと』
その孤独は、わたしには理解できない。そして、わたしの両親にも理解できない。社会の最小単位である『家庭』のなかで、ささやかに慈しみあい、しあわせを紡いで生きてきたわたしたち家族には、それぞれが不在であることは、考えられないことだった。
みずからの常識にないものを内包した先生がどんな問題抱えているのか、わたしたちには計って知るよしもない。想像したところで、いいことはひとつも思いつかない。
――今はいいけれど、あるときひょっこりと、なにかよくないことがあるかもしれないでしょう?
と、母は不安を口にした。
――結婚してから気がついても、遅いことがある。
と、父は心配した。
それでも、わたしには先生が暗い孤独を他人にぶつけるようなことはないと信じられた。
ざんねんながら、その確信には根拠があるわけじゃあない。だから、両親を説得する力はない。でも、ずっと、ずっと、みてきたから。わき目もふらず、この人だけをみてきたから。この人と出会うまでの15年間、自分がなにをみて、なにを感じて生きてきたかを忘れてしまうほど、出会ってからはただ、ひたすらに、先生だけをみつめてきた。
だから、わかる。広大な砂漠のなかの砂のひとつぶほども、先生のなかには家族がなかったことへのうらみや、暗さはない。
やさしい人なのだ。
孤独はむしろ、この人をやさしくした。そういう、なりたちの人だ。
わたしは、両親にむかって、先生を見てほしいと説得をした。わたしの『見る目』を育ててくれた両親だ。きちんと先生を見てくれたら、きっとそのうち、わかるはず――
わたしのその訴えに、父も母も、前向きにうなずいてはくれなかった。だけど、先生とふたりで会うことを禁止されもしなかった。わたしの熱心さにほだされた両親が、ほんの少し、譲歩をしてくれたのだろう。
『しばらく好きにさせておけば、熱が冷めてそのうち別れる』
気持ちのなかには、そんな期待もあったのかもしれない。
ふたりの仲を祝福されぬ日々のなかで、若いわたしの気持ちはときどきゆらいだ。なかなか許しをくれない両親に腹をたてて、なんどか家を飛び出しては先生の住む安アパートに駆け込んだし、しまいにはなかば、かけおちのようなことを画策したりもした。
毎回、それをやんわりといさめたのは先生だ。
『僕は待つから大丈夫。それに、ここにいるって決めたし』
おだやかに言いながら、わたしに不要な外泊をさせず、自宅の前まで送り届けてくれる。
それを繰り返しながら、いくつかの季節が過ぎた。
そしてとある、春を待つ時期の、まだつめたい宵のこと。わたしを送り届けた先生と父が自宅前で偶然、はち合わせをした。あるいは、父は偶然をよそおってわたしたちの帰宅を待っていたのかも知れない。なぜなら、そのときはじめて父のほうから、迷いもなく先生に向かって頭を下げたからだ。まるで、あらかじめ、覚悟を決めていたかのように。
* * *
「きっと、気に入りますよ。お母さんも猫が好きだし」
わたしが言うと、先生の頬によろこびの赤みがさした。
「そう? それならいいけど。なんたって、こんな得体の知れないエエ年の男に大切な君をくれたご両親ですからね、少しでも喜んでほしいです」
「……先生ったら。自分でエエ年だなんて。認めたらそこで負けですよ!」
わたしの言葉に先生は「や、得体が知れないにはフォローなし?」と、楽しそうにカラカラと笑う。その姿に、わたしはひとつ、浅いため息をついた。
「……ちがいますよ」
「え?」
「ちがいますよ。先生は、得体が知れなくなんて、ないです。今はわたしの『家族』なんですから。ちゃんと自覚してください」
わたしの言葉に、先生はきょとんと目をまるくする。出会ったころから変わらない、邪気のない表情だ。そしてそのまま、スローモーションがかかったように、ゆっくりと破顔する。
「……うん。そうだ。僕は君の家族です」
笑顔のまま、しずかな口調でそう告げると、先生は少しのあいだ黙った。つないだ手のひらのちからがつよまる。わたしもその手のひらにこたえて、しっかりと握りかえした。
それから急に先生はなにかを思いだしたようにまじめな顔つきになると、わずかだけ、声をひそめた。
「……今日はおうちに、お父さんも、いるのかな。うん、いますよね、だって日曜日だし」
まだ緊張します? とたずねたわたしに、先生は「あたりまえです。当然です」と首をすくめて、眉根をよせる。
――無理もない。
父は、先生の顔を見るとなんだかつい、お小言を言いたくなるようで、会うたび毎度、『夫の責任とは』だとか、『家庭を持つということは』だとかを嬉々として説いている。
そんなとき、先生は父の目をちょっと盗んで
『まるで、日曜日の教頭先生ですね』
と、わたしに耳打ちをするけれど、ほんとうはさほど困ったふうでもないようで、ニコニコしながら聞いている。
はた目からみると、妙に息があっている。そんなふたりを見て、わたしと母は目くばせをして、笑いあうのだ。
奇跡のような、でも、あたりまえのような、そんなしあわせ。
五月の、はちみつ色の日射しが、そろいのリングに弧をえがきながらきらきらと、光っている。
【END】
2010/05/08
若王子先生と結婚、となると、ラブラブだのなんだのはさておき、障害が多そうなことがしんぱいです。
経歴がこのうえなく怪しい人ですもん。
ぜったい、さいしょは親許しませんて。
そうおもいませんか?
2010年、母の日によせて