「…先生、はじめてかと思ってた」
わたしが先生の腕の中でつぶやくと、先生は、くすくすと笑った。
「どうして?」
「だって、このあいだうちにお見舞いにきてくれたとき…その…」
「ああ。うん。そうだね、女の人の部屋に入るのははじめてでしたよ」
「だからてっきり…」
「はは。そう思っちゃった?」
でも考えてみれば別に、こういうことは女の人のお部屋でなくても、できるわけで。
現に、ここは先生のアパート。うすくて固いふとんのなかで、先生とわたしは、はだかのまんまで抱きあっている。
大切に大切に、まるで宝物のように扱われて、ついさっき、わたしはこのひとの手で、『おんなのひと』にさせられた。
『いい?』ってきかれて、目を閉じた。それが承諾の合図だった。
ふるえながら夢中で先生にしがみついていただけで、気づけば全部が終わっていた。
こわくはなかった。いやでもなかった。ただ、はじめてのことだらけで、なにもかもが、驚くことばかりだった。
そのなかでも、とくにわたしがびっくりしたのは、先生は思いのほか、わたしの扱い方がじょうずだったということだ。
「いろんな人と、したの?」
「気になる?」
「そりゃあ、すこしは」
あのね、と、先生はわたしのみみたぶを軽く甘噛みして、自分の胸のなかにぎゅっとひきよせた。
そして、言った。
「君だけですよ。君がはじめて」
「うそ」
「ほんと」
――先生の、嘘つき。
大人だとか子どもだとか、年齢の違いだとか、そんなものを超越して、先生はあきらかに慣れていた。
身を固くするわたしを、たったひと言でくたりとさせてしまう言葉や、痛さに泣くわたしを、たったひと撫でで快感にみちびく動作や。
はじめてのひとが、そんなことを知っているわけがない。
じっさいわたしは、なんにも知らない。
すこし悔しいから、『実はわたしもはじめてじゃないの』って嘘をついてしまいたかった。
だけど、わたしの態度や、いろんな状況証拠がそれをゆるしてくれなかった。
少しだけ考えて、わたしは言った。
「ねぇ、先生。もしわたしがはじめてじゃなかったら嫌だった?」
一拍以下の間合いをおいて、先生はしずかな声でこたえた。
「…そんなこと、ないよ」
「先生で10人目とかでも?」
「うーん。君の年齢でその人数だったら、びっくりはするけれど、でも嫌じゃない。その経験が、今の君を作ったと思えば、君がいままで何をしてきてても平気。今の君に会えてよかったと思ってるから」
「じゃあ、してきちゃえばよかった。10人とまでは行かなくても、ひとりかふたりくらいは」
「それはダメ」
「どして?」
「…嫌じゃないけど、ヤキモチはやくよ。君のはじめてをもらった他の男のことを考えると、きっと僕は、ちょっとだけヘンになる」
「それって嫌ってことじゃないの?」
「違うよ。現に、君はどう? 僕がはじめてじゃなくて、僕を嫌になった?」
「…やっぱりはじめてじゃないんじゃない、先生」
「あのね」
――本当に好きになった人とするのは、はじめてなんですよ。
先生はそう言うと、わたしのわりと平らな胸の間に、鼻の先をそっとうずめてきた。
先生のふわふわの髪の毛が、まだはだかのままの胸の先にかすかに触れて、ふぅっと耳の裏が、あつくなる。
「先生、そこくすぐったいからやめて」
「ダメ」
「どうして?」
「どうしても」
「ね、お願い」
「じゃあ、責任とってもらえます?」
「…え?」
わたしの胸から顔を上げた先生の瞳は、熱く、なまめかしく潤んでいて、今にも泣き出しそうにみえた。
「先生、目、うるんでる」
「君だって」
「…だって、さっき先生がわたしを泣かせたんじゃない」
「…じゃあ、もう一度泣かせちゃいます。いい?」
「…」
先生は、だまったままのわたしのからだをゆっくりゆっくりと開きながら、右の耳の鼓膜の奥にむかって、低く、あまく、ささやいた。
――その気にさせられて、二回目に挑戦するのも、君とがはじめてです。
耳打ちされて、力が抜けた。わたしは、先生の首にゆっくりと腕をまきつけた。
+ + + + +
それでもわたしは、こころの底に、先生への問いを、ひそめている。
『誰と、したの 何人と、したの あなたのはじめては、いつだったの』
先生には、どれだけたくさんの過去があるの。
はじめてのわたしでさえも潤ませる、そのやさしい指は、いったいなんにんのおんなのひとを撫でてきたの。
――いつか、聞いてもいいんだろうか。
愛しさとすこしの痛みをともなって、わたしのはじめての夜は、ゆっくりと長く、更けてゆく。
END
200907 頃 ?