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+++特効薬


 律儀に毎月おとずれる、この一週間がはじまると、いつも思い出すことがある。

   * * *

 違和感を感じるくらいにカリカリと糊のきいた、まっしろいシーツのなかにからだをうずめこんだ。セミのぬけがらみたいなかっこうにからだを丸めて、かちかちにかたまって、じいっと痛みをやりすごす。
 横になって静まっているおかげなのか、薬が効いてきたおかげなのか、それともその両方なのか、さっきまでの、七転八倒のくるしみからは少しずつ解放されて、わたしのまぶたのうえには、ちいさなまどろみがおとずれようとしていた。
 消毒液の匂いと、安静をうながす沈黙。この保健室のつめたさや、清潔なシーツの白が、わたしをぐっと眠りのふちにさそいこむ。普段であれば不安なくらいの停滞したこの空気も、今日だけはこの痛みをやわらげるための、やさしい要素のひとつになっていた。
「小波さん、だいじょうぶ?」
 目隠しのカーテンの向こうから、保健の先生の鈴の音のようなやさしい声がひびく。
「小波さんは、ときどき生理痛が重いからね。こんな時は、ここまで我慢しないで今度から、早めに休みにいらっしゃい」
 歌うように響く声がわたしを安心にみちびいてくれる。わたしの意識はどんどん、ベッドの底にしずみはじめた。

   * * *

 うすくてかたいベッドのなかで夢をみた。
 薄い金色にひかる教室のなかで、若王子先生にじっと抱きしめられている夢だった。わたしは猫みたいに甘えて、先生のひざにのって、両腕を白衣の首にまわして、目を閉じていた。
 夢のなかのわたし自身は第三者になっていて、先生に抱きとめられるもう一人のわたしを、すこしはなれたところからみつめていた。
 だきしめあう『わたしたち』は、わずかほどもうごかず、静かに、夕陽がつくる色をまとっていた。
 しあわせな夢のはずだったけれど、抱きしめられているのは、夢のなかのわたしだった。
 夢ならではのシチュエーションのなかのふたりの姿に、わたしは見とれていたけれど、反面、小さな嫉妬もおぼえていた。 
 ――わたしだってまだ、先生に、あんなふうに甘えたことはないのに……。
 自分が自分に嫉妬をするなんて、おかしな話だと思う。だけど、不思議と夢のなかでは矛盾がない。
 じいっとだまって見つめていると、ふいに先生の背がすこしだけ丸まって、『夢のなかのわたし』の頬に、そっと口びるをつけた。その瞬間、窓からななめに差し込むひかりが、シャンペンのようにあふれてきて、ふたりを祝福するかのように照らし出した。
 あぁ、なんて甘い夢。夢のような夢をみて、くらくらとめまいがする。目の前が暗転した。

 夢のなかの場面が、変わった。
 今度の夢は、さっきよりもリアルで、保健室のベッドで横たわるわたしのおでこを、若王子先生がゆっくりと撫ぜている、というものだった。
 わたしのひたいのきわで汗にぬれてはりつく、小さなうぶ毛を先生の指がもてあそぶ。
 傷を負った生徒が静かにやすめるようにと、北の静かな場所に配置された保健室には、午後の太陽光はとどきにくい。
 蛍光灯のさえざえとした青白いあかりが、先生の輪郭をきわだたせていた。
 なにやら妙に現実感のある今度の夢は、ようやく「わたし自身」が主人公だった。
 若王子先生が、わたしを覗きこんで、心配そうに眉根をよせた。
「だいじょうぶ? 小波さん」
 わたしは、先生の問いには答えないで、「先生に、似ています」とちいさくつぶやいた。
「なにが?」
「この、部屋」
「保健室が?」
 夢のなかなのに、違和感なく会話が成立してゆく。
「白いシーツ、白衣の先生みたい。こうしてベッドの中にいると、先生にだきしめられているみたい」
 先生が、いとしげにわたしを見つめて、ほほえんだ。
「シーツに抱きしめられるだけで、いいの?」
 いつもは言えないけれど、夢のなかだから、すなおになれる。
「ううん、ほんとうは、せんせいが、いい」
「うん、じゃあ、保健の先生が、帰ってくるまでのあいだ、すこしだけ、ね」
 白衣姿の先生が、わたしにそっとおおいかぶさる。白いシーツと、白い先生にはさまれると、この痛みが、すこしづつ、からだの外に拡散してゆく。
 わたしは、先生の首に両腕をまわした。
 先生は、ちょっとびっくりしたみたいに一瞬身をひいたけれど、そのあとすぐに、全身をわたしにさずけて、やさしく抱きしめかえしてくれた。
「せんせい、ほっぺに、キスして」
 さっきのわたしに負けたくない、と、自分からねだってみた。
 先生が、くすくすと、笑う。
「君はほんとうに、甘えんぼうだ」
 先生が、すこしからだをちぢめる気配がした。そして、頬に口びるをつけられる。
「痛いの、痛いの、とんでゆけ」
 先生が小さな声で呪文をとなえながら、何度も何度も、頬や、ひたいや、まぶたのうえにキスをしてくる。
 キスがひとつ増えるたび、一日中わたしを苦しめつづけた痛みがどんどん去ってゆく。
「好きになったふたりがする、口びるをあわせる本当のキスは、ちゃんと君が起きてから、ね」
 夢のなかなのに、律儀な先生。その先生に慈しまれて、わたしのからだがしあわせに、満ちる。
 先生の声が魔法みたいに耳の奥に響くから、夢のなかにいるはずなのに、不思議とふたたび眠くなる。
「あとで迎えにきます。もうすこし、眠ってて」
 わたしは、その言葉を聞く前に、ふたたび意識を手放していた。

   * * *

「女の子って、いろいろ、その、大変ですよね?」
 学校に背を向けて歩きながら、わたしのとなりに並ぶ先生がおかしなことを言いはじめた。
 けっきょく、放課まで保健室にいたわたしを、担任である若王子先生が家まで送り届けてくれることになったのだった。
「はっ?」
「ほら、君、今日、その……」
 たしかに、生徒が保健室を利用する理由を、担任の先生が知るのは義務でもあるのだけど、それを当人にいうなんて、いくらなんでもデリカシーがなさすぎやしないだろうか。
「先生…… そういう、微妙なはなしって、普通、女の子の前ではしませんよ?」
「あっ、もしかして、これってセクハラだった?」
「……はぁ……」
 わたしが吐き出したため息を聞いて、すこし気まずさを感じたのか、先生が急に明るい声を出して話題を変えた。
「それにしても、先生、今日はラッキーです」
「なにがですか?」
「え、ええっと」
 先生から言い出したのに、口ごもって目を泳がせはじめた。……不審すぎる。
「せんせ?」
 非難がましく声をかけてみれば、若王子先生は、すこしあわてたそぶりをして、
「あ、ほら。怪我の功名っていうんですか? 僕、今日は陸上部の指導をまぬかれました!」
「先生、その言葉の使い方、間違っていますよ…… しかも、練習をサボれたことを喜ぶなんて、顧問としてダメダメですよ」
「あれ。ダメでしたか……」
 先生が、しゅんとして肩をおとした。その姿がおかしくて、可愛くて、わたしはくすくすと笑いながら言った。
「でも、こうして先生とふたりで堂々と帰れるのは、わたし、嬉しいです」
 そのとたん、先生の顔が、パッと明るく輝いた。わたしよりずいぶん年上なのに、大人なのに、先生はときおりこちらが恥ずかしくなるくらいに感情を隠さない。
「うん、そうですね。今日はちゃんとした理由がありますから、堂々としていられます。担任として、君を家に送り届けるわけですから、ね?」
「あはは。でも、周りから見たら結局はいつもと同じにみえるんでしょうけど」
「いえいえ。こういうのはね、本人たちの心意気です。ねぇ、ところでもう、おなか痛くないの?」
 また話題が戻ってきた。わたしとしては、やっぱり少し恥ずかしいから、どうにかそこから話題を離したいのだけど、先生にとってはどうにも気になることのようだ。
「おかげさまで、もうだいじょうぶです。ご心配おかけしました」
 感情を隠そうとして、あっさりと言いすぎたせいか、先生が非難の声をあげる。
「や、小波さん、他人行儀!」
「だって、先生、今日は『担任』として送ってくれてるんでしょう? 必要以上に仲良くしたら、せっかくの心意気がだいなしですよ」
「……そうですけど。でもせっかく一緒に帰ってるんだから、もうちょっと、ラブラブな感じになってもいいと思うんですけど……あぁっ!」
「なんですか?」
「わかりました! 女性特有の『ブルーな気分』ってやつですか!?」
「……先生……」
 あまりの直球さにあきれて、プイっと横をむいてしまえば、先生がちいさくつぶやいた。
「保健室での君は、あんなにすなおで可愛かったのに……」
 先生の、わざとトーンをおとした声を聞き取れずに、わたしは強く聞き返した。
「はいっ? なんですか?」
「なんでもないです! ねぇ、小波さん、先生にだっこしてほしい?」
「はぁっ? なにをいってるんですか……」
「じゃあ、ほっぺにキスは?」
「先生、いいかげんにしないと、セクハラで訴えますよ?」
「小波さんの、バカ」
「バ……?」

「わかちゃーん、バイバイ!」
「あ~! 若ちゃん、まさかナンパ?」
「みなこー、体、気をつけて~」
「若サマー、さようなら~」
 こそこそ声で、ひそやかに口げんかをしている間、顔見知りの生徒たちがわたしたちに声をかけては通り過ぎてゆく。
 秋の風が、わたしのひたいのうえを涼やかにわたって、前髪をゆらす。イチョウの並木が、早くも黄色く色づいて、わたしたちにの目の前にこがね色の道をつくる。
「ほら、小波さん、そんな顔をしてると、みんなに変だと思われますよ」
「だ、だって先生が!」
 わたしが抗議の声をあげると、先生が急に、やさしげに声をひそめた。
「や。小波さんが元気になってよかった。ひたいの汗、もうかわいたね」
「汗?」
「うん。今日は汗をかいていたみたいだから、おうちにかえったらすぐにお風呂に入って、あったかくして早めに寝てください。今日は夜更かし禁止です。君にだけ特別に、明日の化学の宿題は免除します」
 ご両親に、ちゃんと君の様子を引きつがないとね、君はすぐに夜更かしをするから、と先生はひとりごちている。
 化学の宿題が免除になったのは、きっとわたしだけの特権だなぁ、ラッキーだったかも、思いながらも、どうして先生、わたしが汗をかいて眠っていたことを知っているんだろう、と不思議に思って、聞いてみた。
「…… 先生、今日保健室に、きたの?」
「うん、すこしだけ、様子を見に。小波さん、よく眠ってましたよ」
「えぇぇぇぇ…… 先生、わたしの寝顔、みたの?」
「寝顔っていうか、まぁ。いろいろと。君、夢、見なかった?」
「……夢……?」
 おぼろげにのこる夢の残像をおいかけてみれば、白衣姿の先生がいたような、いなかったような。
「まぁまぁ。無理に思い出さなくてもいいです。でも女の子は、いつもあんなに苦しいんだね、あんなふうになるなんて……」
「はい?」
「うん。君がね。女の子でよかったな、っていう話」
「……先生、それ、またセクハラ?」
「あのね、小波さん。いい? よく聞いて。僕が本気でセクハラをしようと思ったら、こんなもんじゃすみませんから」
「なにいってるの、先生……」

   * * *

 けっきょく、わたしが先生から本格的にセクハラを受け始めるのはもう少し先のはなし、なのだけど。そのとき、いやっていうほど、この言葉の意味がわかるのだった。

   * * *

 化学準備室で若王子先生にコップの水を手渡されて、今月もわたしは生理痛の薬を飲む。
「ハァ。また、きちゃいましたか」
「どうして先生が、ため息をつくんですか……。こないと困るのは先生じゃないですか?」
「だから、僕は困りませんってば。いつも言ってるでしょ? それに、あと一ヶ月もしたらもう君はここの生徒じゃないんだし」
「もう、先生……。ふざけないで……」
「おなか、いたい?」
「はい。すこしだけ」
 いよいよ本格的な受験期を迎えて、もうすでに三年生が自由登校になっているせいか、校内は閑散としている。
 こんな時期だけれど、すっかり進路が安定しているわたしは、校内で先生とすごせる貴重な時間を無駄にすまいと、わりとせっせと登校しているのだった。
 わたしたちは椅子をならべて腰かけて、他愛もなくおしゃべりをしていた。
 コップを洗おうと、立ち上がってシンクにむかいかけたら、先生がわたしを呼ぶ。
「おいで。小波さん」
 先生に呼ばれてふりむくと同時くらいに、白衣の腕がのびてきて、わたしの制服姿の腰をそっと抱きとめた。
「わっ、せんせい。ダメです」
 強引に引き寄せる腕にあわてて、わたしはとりあえずコップを薬品棚のすきまに置いた。
「でも、これが君の特効薬なんでしょう?」
 あっという間に抱きとめられて、耳元でささやかれた。
 ――でも、たしかに先生が言うとおり。なぜかあの日以来、わたしの生理痛は白衣姿の若王子先生に抱きしめられると、信じられないほどに軽くなるのだった。
 先生の膝のうえに乗せられたわたしは、抵抗をあきらめて、素直に白衣の首もとに腕をまわした。
「ね、先生。わたしが卒業しても、痛くなったらこうやって、抱っこしてくれますか?」
「うん、そりゃあもちろん。卒業しても、君にこれがある限り毎月ずうっとやってあげますよ」
「ずうっと、なの?」
「うん。ずうっと。それからね、卒業したらすぐに、10ヶ月くらい君のそれ、とめちゃうつもりですから、覚悟しててくださいね?」
「……なにいってるの、先生……」
 冗談だとは、思うけど。特効薬を服用し続けると、思わぬ副作用があるのかもしれない。それなりに、気をつけないと。

   * * *

 冬の弱い西日がこの部屋のガラスをすりぬけてきて、わたしたちを金色に包む。
 先生が背をかがめてきて、口びるをわたしの頬におしつけた。
 ほんの一瞬、よく知った誰かの視線を感じたような気がしたけれど、気のせいにちがいない。唯一、この部屋から視界が開ける窓の外には、三階からの風景がひろがるばかりなのだ。
 ――いつか、似たような夢をみなかっただろうか。
 不確かな既視感にまどわされながら、わたしは先生の白衣に身をうずめる。







初掲20080905
再掲200904 極微に訂正あり

そういう日も、そうでない日も、ふたりが365日、なかよしでいればしあわせなんじゃないかなとおもいます。


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