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+++はじめての、にちようび

 


「ふああ、もう、おなかいっぱいです」
 そう言いながら先生は、たたみのうえにごろん、と寝転がってしまった。

 高校を卒業してはじめての日曜日。そして、若王子先生とわたしが、恋人同士になって、はじめてのデートの日。先生からのお誘いで、わたしは先生の住むアパートにやってきた。
 昼食には手料理を作ってもよかったのだけど、話を聞いてみると、先生のこの部屋にはお鍋も包丁も、さらに二人分の食器もないということだったから、それはおいおいにそろえてもらうことにして、今日はとりあえず、先生いきつけの定食屋さんでふたりおそろいの鯖の味噌煮定食を食べたのだった。

 先生は、からだをのばして、心底リラックスしたようすで無防備に横たわっている。靴を脱いで数分もしないうちに、だ。わたしはといえば、まだ緊張してしまって、きょろきょろと部屋のあちこちに視線を這わせるばかりだった。
 八畳、くらいはあるのかな。わたしにとっては新鮮な、純和風の作りの部屋だ。これを昭和風、というのだろうか。壁には変なラメが入っていて、指でさわると、ぽろぽろと崩れてきた。
「先生、この壁、なんの素材ですか?」
 と、わたしが聞けば
「小波さん、砂壁しらないの?」
 と、聞き返された。わたしは、『すなかべ』を知らないことがなんだか恥ずかしいことのような気がして、話題をそらした。
「ねぇ先生、食べてすぐ横になると、牛になっちゃいますよ?」
 すると 先生は、寝転がって目をとじたままで言った。
「うん。それでもいいよ。でもどうせなら僕は、牛になるより猫になりたいですねえ。そんなことより、君もどうですか?」
「え?」
「こっちに来ませんか? 一緒に寝ましょう」
「……え……?」
 ……意識、しすぎだろうか。お昼寝に誘われているだけ、だよね? だけど、つきあっている男女が、密室で寝転んで向き合ったりすると、やっぱりその……。まぁ、密室というには、あまりにも頼りない風情の先生の部屋ではあるのだけど。
「せ、んせい……。あの」
 わたしが全身に戸惑いをにじませて躊躇していると、先生ははんぶんだけ目をあけてわたしのほうを見た。
「だいじょうぶ。変な意味じゃないよ。君がいやがるようなことはしません。おいで」
 そして、この世のものとも思えないほどのやさしいほほえみをつくると、わたしをちょいちょいと手招いた。
 わたしは、その笑顔に安心して、先生に言われるまま、ベージュのシャツのふところにすべりこんだ。
 そのとき、少しだけピンクのスカートのすそがめくれたから、あわてて手のひらで膝上におさえつけた。
 先生がそんなわたしの行動を見て、くすくすと笑った。そしてそのまま、先生の両腕はわたしのからだごと、ぜんぶをすっぽりと包み込んだ。
 わたしは、先生の胸元に顔をうずめるようなかっこうになった。先生の胸は、わたしが知らないにおいがして、すこしびっくりした。お日様のもとで健やかに乾かされた、清潔な干し草の甘いにおいににていた。
 ――これが、先生のにおい……。
 先生の部屋は静かだった。音がない。そうか。先生の部屋にはテレビがないといっていたっけ。それから、うららかな春の気配にさそわれて、猫たちもどこかに遊びにでかけているようだった。
 耳が、まるで仕事を忘れてしまったみたいだった。すこしがんばると、アパートの庭に植えられた梅のつぼみがほころぶ音すら、聞こえてきそうなほどだった。
「先生、静かですね」
 と、わたしが言うと、先生も
「静かだね」
 と、答えた。
 先生の手のひらがわたしの髪に触れた。そしてかすかな力でなぜはじめた。わたしは、先生にやわらかく抱きしめられたまま目をとじた。三年間、夢にまで見た先生の胸のなか。
 不思議と緊張はなくなっていた。はじめからわたしのためだけに存在しているかのような、あたりまえの居心地のよさがわたしを包みこんでいた。鯖の味噌煮定食の消化の作用もあるのだろうか。知らず知らずに、眠りの波が、わたしの意識の端をとらえはじめていた。

* * *

 はじめは、夢を見ているのだと思った。先生に抱きしめられて、キスをされている夢。先生に恋しつづけてきた高校三年間、何度もなんども繰り返し見てきた夢だったから、いっしゅん、夢と現実との区別がつかなかった。
 しかし、それは夢ではなかった。じっさいに、先生はわたしを抱きしめながら、かそび取るように、なんどか、触れるだけのやさしいキスをくりかえしていた。
 ――先生、ずるいなぁ。
 わたしに内緒で、こんなふうにこっそりとキスするなんて。
 だけど、しっとり吸付くような甘い体温があまりにも気持ちよくて、わたしはそのまま、眠ったふりをつづけることにした。起きてしまって、このキスが終わってしまうと思うと、それが残念だったのだ。
 そのうち、先生の指がわたしのまつげの先をなぜはじめた。そして、ちいさなため息が聞こえた。
「……僕はそんなに安心ですかねえ……」
 先生の指さきはまつげを離れ、わたしのほおに触れた。
「こんな風に眠られると、自信、なくなりますね」
 ――自信?
「君はまだ僕を先生と呼ぶし、警戒もされずに眠られると、男として意識されてないような気がします、よ」
 先生の声は、どんどん自信がなさげに小さくなってゆく。
「あのね、僕たちは恋人同士なんですよ、こ・い・び・と。君、わかってる?」
 わたしは、ついにこらえきれなくなってくすくすと笑った。
「やだ、先生、なに言ってるの?」
 先生は目をぱちぱちとしばたたかせて、わたしからすこしだけからだを離した。
「あれ。起きてたの……?」
「起きてますよ」
「どのへんから?」
「んーと。キスいっぱいしてたところ、くらい?」
 わたしがそう言うと、先生は拗ねた口調になった。
「ずいぶんはじめの方からじゃないですか。美奈子さん、ずるい」
「だって、先生、かわいいんだもん」
「……かわいい?」
 先生は、眉根をよせて怪訝そうな顔をした。あ、と。こんな言い方、大人の男のひとに、失礼だったのだろうか。
「先生、ごめんなさい」
 わたしがあやまると、先生はゆるしません、と言いながら笑った。そしてわたしに、もういちど、ぐっとからだをおしつけてきた。
 さっきまでの、ふんわりとした抱きしめ方とはちがって、わたしをとらえて閉じ込めてしまうような力だった。
 先生の目は、笑っていたけれど真剣だった。先生の目に落ちる影が黒くにじんでいた。そのまんなかに、わたしをまっすぐ見つめる光だけが浮かんでいた。
「先生……」
 わたしがちいさく先生を呼ぶと、先生はわたしの口びるのうえに吐息を重ねてきた。
 ――あ、真剣な、キスだ。
 わたしは目を閉じた。わたしのその行動を見て、先生は聞いてきた。
「ねぇ。恋人同士がする、大人のキスをしたら、君はびっくりする?」
 わたしは答えた。
「わからない。したこと、ないから」
 すると、先生は小さな声で耳打ちをしてきた。
「じゃあ、してみましょうか。そのまま、目をあけないで」

 わたしをおびやかさない速度で、先生の舌はわたしの口びるの間を割ってすべりこんできた。はじめて自分のなかに迎える他人の存在に驚いて、わたしはすこしだけ身をひいた。すると、先生の両手のひらがわたしのほおをしっかりと包み込んできた。逃げられなくさせられたのだ。
 先生の舌は、少しずつ進んできて、丁寧にわたしの口のなかで動いた。その所作は、ゆっくりではあったけれど、遠慮がちというのとは、まったく違っていた。はじめからその速度も深さも計画されていたみたいに、真摯に動いた。
 しだいに、わたしが先生の動きに慣れはじめて口びるの緊張を解くと、先生の舌は、わたしの歯の裏をなめたり、のどの奥をかるく、突いてきたりした。
 わたしの口のなかのどこかに、なにかが隠されているんじゃないかと思うほど、先生は熱心に、わたしの口のなかを調べ尽くそうとしていた。
 先生の舌はやわらかくて、ぬるかった。自分以外のひとの体温を、からだのなかにまじわらせていることが不思議だった。そしてもっと不思議なのは、それがうっすらと、わたしの快感をめざめさせるものであるということだった。じいっと先生の舌の動きを受けとめつづけていると、尾てい骨から背筋にむかって、なにか甘いものがせりあがってきた。それが、とても気持ちがよかった。そのうち、耳の奥に、きーんという、耳鳴りのような音がひびいてきた。その音を聞き続けていたら、意識がどこか遠くに飛んでいくような感じがした。
 わたしがとらえどころのない浮遊感にぼんやりしていると、先生が、口びるをあわせる角度をすこし変えた。
 そのとき、先生は熱っぽく、耳元に吹きこむようにして、わたしの名前をささやいてきた。
「美奈子さん、好きです」
 わたしは、そのときはじめて、先生に名前で呼ばれていることに気がついた。いつ、切り替わっていたんだろう。いざ気がついてみれば、それは、怖いほどうれしいことだった。からだの奥からわきあがってくるような、甘いしあわせに身震いをした。
 そのふるえが先生に伝わったのだろうか。
 先生はわたしの口びるからそっと舌をぬくと
「こわかった?」
 と、首をかしげて心配そうに聞いてきた。わたしは首を左右に振った。
「じゃあ、もうすこし、続けていい?」
 わたしは、それには答えなかった。かわりにふたたび目を閉じた。

 わたしたちは、長い長いキスをおえて、それでもまだ離れがたくて、抱きしめあったまま、たたみのうえに寝転んでいた。
 わたしの腕は、先生の背中にまわっていた。先生のベージュのシャツは薄くて、わたしの指先に、ダイレクトに先生のからだのかたちを伝えてきた。
 わたしは、先生の背骨に指を這わせた。そして、ひとつ、ひとつ、胸椎を指でたしかめていった。
 ――先生も、キスしているとき、ここがきもちよかったのかな?
 そう思いながら、骨のかたちをなぞった。すると、四つ目のところで先生がわたしをいさめた。
「そんなことすると、もっといろいろしちゃいますよ?」
 わたしはあわてて、手をひっこめた。
「いろいろって……?」
 先生はやさしく、わたしに教え諭すように言った。
「恋人同士にはね、他にもすることがたくさんあるんですよ。少しずつ、教えてあげます」
 先生は、わたしの反応をうかがうように、切れ長のふたえの目をやわらかくたわめて、こちらを見つめてきた。
 わたしは戸惑って、ふい、と先生から視線を外して壁を見た。壁のラメが、夕日をうけてきらきらと光っていた。
 先生はわたしの頭をひとなぜして、からだを離して身を起こした。そして、わたしの背中に腕をまわして、ゆっくりと抱き起こしてくれた。

「美奈子さん、来週も、この部屋に来る?」
 わたしはこくりとうなずいた。
 先生はわたしのうなずきにほほえんだ。そしてさっきわたしがしたみたいに、わたしの背骨の骨を、四つめまで、指先で、こりこりと、なぞった。その気持ちよさにからだがふるえるのを、わたしはあわてて押さえこんだ。
 ――来週教えてもらえることはなんだろう。
 卒業しても、先生は、わたしの先生なのだ。
 甘い予感に身をひたしながら、わたしは先生の胸にもたれかかった。
 これからも、ずっといろいろなことを先生に教わりながら、わたしはこのひとのもとで過ごすのだろう。
 小さな声で、先生の名前を呼んでみた。
「た、か、ふみ、さん」
 でも、それはまだ声にはならなくて、先生のベージュのシャツの胸に、じんわりとしみこんで、溶けていっただけだった。

* * *

「じゃあ、暗くなる前に行きましょうか」
 先生が明るく言った。
 今夜の晩ご飯は、わたしの家で、家族と一緒に、先生を招待して食べるのだ。
 窓から見える空には、あかねの色がにじんでいた。
「今日の晩ご飯はすき焼きですって、先生」
 わたしが言うと、先生はコートの袖に腕を通しながら、こちらを振り返って、うれしそうに、笑った。
 その笑顔がうれしくて、わたしも笑って、先生の腕にしがみついた。
 たてつけの悪い窓の桟のすきまを縫ってしのびこんだかすかな梅のかおりが、先生のこの部屋に満ちていた。



END

 

2009/03/09 初出
2009/05/01 再掲

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