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+++やさしい声で

(こいつは続かねぇな)
 一目見て、そう、思った。
 花屋の仕事ははた目から見ると優雅できれいに見えるらしいが、実はけっこうな重労働だ。拘束時間の七割が力仕事で、冷たい水も扱うし、鋭い刃物を使うことも多い。
 俺の目の前に立った、小さくて細くて、爪の先を淡いピンクに染めたようなお嬢さんになんて、この仕事が勤まるわけがない。第一印象で、俺はすっかり、そう決めつけた。
 っつーか、こいつには、花屋の店員というより、花屋の客ってほうがよく似合う。実際、俺もこいつが店頭に現れたときには、客と勘違いして接客しちまったくらいだし。
(こいつが新人? できんのか? あーっと、持って、3ヶ月)
 俺は即座に、そうジャッジした。
 実際、高校生のアルバイトなんて、たいした使い物にもなりやしない。そのくせ、ようやく慣れたかと思う頃、頭一つ下げただけで、かんたんにここから去っちまう。
 どうせこいつもそうなんだろ。あーきっと、夏休みに遊ぶ小遣いほしさとかで、遊び半分の気持ちでここのバイトを決めたに違いない。
(そりゃあそれでいいけどよ。俺の仕事の邪魔だけはしないでくれよ)
 そんな風に思ったから、はじめのうちは俺はこいつを空気のように扱って、よっぽどの用事があるとき以外はほとんど、無視に近い行動をした。
 だけど、そんな俺の愚かな先入観は、ほんの数週間のうちに魔法みたいに覆されていった。
 そう、みなこには、案外、いや、かなり、骨があった。言われた仕事は黙々とこなしたし、カンもよかった。あっという間に仕事を覚え、有沢たち古株のアルバイトともすぐ馴染んだ。
 さらに、手先はわりと器用だと自負する俺でもなかなか手こずった、フラワーアレンジメントのコツですら、すぐにモノにしてしまった。
 ただ、本人がいくら努力をしたところで、どうしても出来ないことだってある。それが、みなこの非力さやら、背の低さから来る、本人にはどうしようもないハンデだ。
 みなこは、それを申し訳なく思っているようで、自分一人でこなせない仕事に直面したときには
「先輩、申し訳ないんですけど、あの、棚のリボン、取ってもらえたら……」
 だとか、
「先輩、よかったらあれ、運んでもらいたいんですけど……」
 だとか、ちいさくなっておずおずと切り出してくる。
 その姿が不憫で、俺は、自分がうっかりと一番高い棚の上に無造作に置いてしまったピンクのリボンを手渡しながら、みなこに言った。
「そんなあやまんな。お前のせいじゃねーし」
 俺の優しさがめずらしかったのか、みなこはきょとん、と俺を見つめた。その瞳は、無垢な子どものように純粋で、うっかりすれば、引き込まれてしまいそうだった。
 そのとき、俺は思ったのだ。
(こいつを、笑わせてやりたい)
 そのためには、まずは、今までのことを詫びなきゃならない。 
 そして、今日から俺は 、こいつに優しくする。
「そんな顔すんな。今までごめんな、みなこ。俺、ずっとお前を誤解してた。俺は、今日かぎりで心を入れ替える。これからは、何でも俺に頼っていいぞ。ほんと、いままで、ごめん。な」
 俺が言うと、みなこはちょこんと首をかしげた。
「先輩? どうして先輩があやまるんですか……?」
 不思議そうに目をまるくするみなこの背中には、色とりどりの花がうなり、競うように咲いていた。そりゃあ、そうだ。ここは花屋だ。
 でも、俺には見えた。あいつの姿が、午後の庭園で花に囲まれてほほえんでいる、どこぞの王家の姫様に。


 ――それが、こいつと出会って一ヶ月目。晴れた初夏の日の、夕方のことだった。

***  

 ある日、アンネリーの休憩室の壁に掛かるカレンダーを見ていて、ふと、気がついた。
(あいつ、一週間も、休むのか?)
 その日、客がいない時間を見計らって、レジカウンターのなかで、花の発注伝票を書いているみなこに聞いた。
「なぁ、お前、その、なんだ。来週から、どっか行くのか?」
 みなこはボールペンを指先に持ったまま、きょとん、とこちらを見上げた。
「どっかって?」
「いや、あー。あの、一週間も休むって言うから」
 俺がそう言うと、みなこは少し困ったように笑った。
「ああ、あれ、違いますよ。期末考査なんです。皆さんには迷惑かけちゃうんですけど、一週間、休みをもらってしっかり勉強しないと――」
「若王子に、ドヤされちゃう、ってか?」
 俺は、馴染みが深かった、元担任の名前をふと出してみた。
 すると、あいつはでっかいその目を、ますます丸く、くるくるさせた。
「先輩すごーい。わたし、話したこと、ありましたっけ?」
「ん、なにをだ?」
 聞けば、あいつは、前回の化学のテストで赤点を取ってしまって、若王子主催の補習にずいぶん、苦しめられたらしい。
「さすがに、ドヤされたりは、しませんけど」
 だけど、けっこう先生、ああみえて案外きびしかったです、なんて、ちらりと舌を出してみなこは笑った。
「……なあ、みなこ」
 お前さえよかったら、俺がテストの勉強、見てやるぞ?
 俺はみずから、にわか家庭教師を申し出た。自慢じゃないが、理数系はそう苦手なほうじゃない。
「え、本当ですか? 先輩」
「おう、まかせとけ。理数系は、そんなに苦手なほうじゃない」
 そうは言ったものの、実際、にわか家庭教師をはじめてみると、そんなにうまくはいかなかった。
 どっちかっつーとヒラメキ型の俺は、人に教えることがうまくできなかったのだ。
 だから、テストが終わったそのあとに、みなこが、小さく肩を落として、
「せっかく、先輩にも協力してもらったのに、やっぱりダメでした。また、補習です……」
 そんな風に下を向いたのも、まぁ、当然の結果だろう。
 けっきょく俺は、こいつのためには何一つ、してやれなかった。
 この結果は俺のせいでもあるわけで、こいつに詫びをいれなきゃならない。
「んー、だったら、あれだ。残念会、しないとな。来週の日曜日、あいてるか? どこでも好きなところ、連れてってやるぞ」
 わざとらしくならないように、あくまで先輩としての立場を崩さぬように。俺は、最大限の平静さを装って、さりげなく、誘ってみた。
 そんな俺の心中を知ってか知らずか、みなこは、無邪気に、こう答えたのだ。
「うれしい! わたし、先輩の車で、海にドライブに行きたいです!」
 ……そんなこと言うな、みなこ。俺じゃなきゃ、男はそれ、勘違いしちまうぞ?

***

「じゃあ、あれじゃねーか? 化学室の骨格標本に『化学の成績が、よくなりますように』って書けばいいんだよ」
「こっかく、ひょうほん?」
「ああ、もしかして、お前らの代、知んねーのか? って、お前。そんなにこっち来んな、って! あぶない。ちょっと、停めるぞ」
 みなこがあまりにもこちらにからだを乗り出して聞いてくるから、俺はこれ以上の運転をあきらめて、道の端に車を停めた。
 そのとたん、みなこは車のドアを開け、海に向かって走り出した。
「せんぱい! すごい、夕日です。きれい! わたし、こんなの、はじめて」
 小さな岬の先端を走るこの道は、はばたき市随一の、夕日のビュースポットだった。
(ふう)
 理性の危機を、夕日に救われたような気がして、俺はひとつ、ため息をついた。
 みなこはガードレールから半分からだを乗り出して、海のほうに手を伸ばしている。
「みなこ、あぶないって」
 みなこをいさめながら俺が手を差し出してやると、彼女はするりと俺の脇を抜けた。
「ふふ、平気ですってば。わたし、子どもじゃないんですから。ところで、先輩」
「んー?」
 みなこの髪が、キラキラと陽に透けていた。海からの風が、俺たちふたりを吹き上げていた。輪郭が、背中のオレンジに溶けて、彼女の表情は見えなかった。
「骨格標本に、願いごとを書いて吊るすとなんでも叶うっていうの、ほんとうですか?」
「ほんとっつーかなんつーか。あれも、迷信だからなぁ。それに、なんたって、かなえるのはあの若王子だぞ。あんま難しいのは、ダメなんじゃないか」
 そう言うと、みなこはうーん、と小さくうなった。
「じゃあ、あれかな。その、学園七不思議のうちの、ひとつを書いて吊るせばいいのかな?」
「は?」
「だから『試験前に、若王子先生の頭脳コーヒーが飲みたいです』って書けば、頭脳コーヒー効果で成績アップ、ですよね?」
「はは。なるほど。俺にはその発想はなかった。お前は賢いなぁ」
「もう! また子ども扱い!」
 みなこが拗ねて口をとがらせる。そのシルエットは、もう、子どもの姿じゃなくて、そしてただの後輩の姿にも見えない。
 俺は、思わず目をそらして話題を変えた。
「しかしなぁ、お前の担任も若王子だなんてなぁ。はばたき市がいくら狭いとはいえ、そんな偶然も、あるんだな」
「ふふ。ほんとう。世の中って不思議ですね」
 無邪気に笑いながら首をかしげるみなこをもっとたくさん見たくて、俺は矢継ぎ早に七不思議の話を繰り出した。
「あ、不思議といえばな、七不思議のうち、ほかにもこんな不思議があるぞ、若王子の白衣の内側には謎のスイッチが仕込まれていてな、それを押すと――」
「ど、どうなるんですか……」
 みなこが、こくり、と息を呑む気配が伝わってくる。
 こいつが今、シルエットになっていてよかった。
 もし、表情が見えてしまえば、きっと俺は自制できない。
 はっと息を浅く吐き出し、俺はわざとおどけたように言う。
「なぜだかは知らないが、羽ヶ崎学園のとある数学教師が、五分間、動きをとめる、とか」
「アハハ! なにそれ」
「他にもあるぞー。薬品棚の奥にひそむ、ピンク色の錠剤を見つけたら、ぜったいに触ったらダメだ」
「ど、どうして?」
「それを飲むと、猫になるらしい。噂じゃ、その薬に触っただけでも、尻尾がはえてくるそうだ」
「うそ!」
「ほんとだ。ちなみに、若王子が校庭の裏で面倒見ている猫たちは、若王子の言うことを聞かなかった不良生徒たちのなれの果ての姿だ、とも言われている」
「えぇー……」
 俺たちは、夕日が沈みきるまで、若王子の話題で盛り上がった。
 正直、前日まで、一日話題が持つかと不安を抱えていた部分もなきにしもあらずだったので、これでひとまず安心した。若王子様々だ。
 考えてみれば、あいつと俺の共通点なんて、アンネリーでのバイトのことくらいしかない。俺は大学生で、あいつは高校生だ。立場も違えば、年も違う。
 今のみなこが過ごしている高校時代を、たしかに俺も過ごしてきた。そのときの思い出話をするにしても、みなこに話せるようなことはなにもない。あの頃の俺はなにも考えていなくて、ただ、無為に日々を過ごしていただけだった。みなこみたいに、成績のことで悩んだり、バイトに精を出したり、そんな風に過ごしてはこなかった。
 そのせいだろうか、俺には、こいつが眩しくてたまらない。
 俺の話を聞いてはころころと笑う姿にふいをつかれ、
「お前はほんとにかわいいなぁ」
 なんて、つい、冗談めかして言った言葉は、俺の心の底にうずみこむ、本心からの言葉だった。

 ――それがこいつと出会って一年とちょっと。夏の終わりの出来事だった。

***

 土曜日の夕方には花がよく出る。日曜日の朝を、花で飾って迎えたいと思う人が多いのだろうか。息をつく間もない忙しさの中で俺たちはきりきり舞いに働き続けた。そして、ようやく人の波も去って、店頭には客がひとりも、いなくなった。そのときだった。
「せんぱい! お誕生日、おめでとうございます」
 みなこが両手で差し出してきたのは、ホールケーキ箱よりすこし小さめくらいの、丁寧にラッピングされた白い箱だった。
 去年はふざけて俺から誕生日をアピールしたが、今年はそんなことはしなかった。そのかわり、彼女が覚えてくれているかどうかを、自分の中でちいさく賭けた。
 覚えていてくれるだろうか。それとも、忘れているのだろうか。
 もし、覚えてくれていたとしたら、どんな風に祝ってくれるだろうか。
 俺は今日、この日を使って、みなこの中での自分の位置をはかろうとしていた。
 なんか、情けねーけど、そんなことを思ってしまうくらいには、みなこの存在は俺の中でとっくに大きくなっていた。
 みなこからおめでとう、の言葉を聞いて、おれは、不覚にも、じーん、とした。
「……嬉しいな。あけてもいいか?」
 みなこは、瞳をまるくして、こくこく、と、嬉しそうにうなずいている。
 俺はゆっくりと、オレンジ色のリボンを解いた。
 ――オレンジ色。
 この色は、みなこと初めて二人で出かけたあの日の夕日の色だ。あの日以来、おれはこの色を特別に好きになった。
 細いリボンを解きおわると、白くて薄い包装紙を、そっとひらいた。バイトとはいえ、俺も花屋のはしくれだ。ラッピングを丁寧に解くことくらい、朝飯まえだ。
 俺の指先を見て、みなこがほう、っとため息をついた。
「先輩、みたいなひと、いいなぁ。ものをとっても大事にしてくれそう」
(じゃあ、つきあうか?)
 そんなふうに軽く言えたら、楽だとは思うけれど、今はまだ、時期じゃない。いつか、きちんと時が来たら、俺はこいつを夕陽がにじむ灯台に迎えに行く。
 そんなことを考えながら白い化粧箱の端に、つめをひっかけて、これまたゆっくりとふたを開けた。
 中から出てきたのは、『レンゲ付カフェ丼セット』2セット。
 ――2セット? まぁ、深い意味はないんだろうけど。 でも、2セット? ペアってことは、あれか? 俺と、もう一人、誰かを想定して……
 黙ってしまった俺を見て、彼女は不安そうな瞳を向けてくる。
 俺はあわてて笑顔を作った。
「みなこ、ありがとよ。さっそく今日からでも使わせてもらうな。でー、もし、よかったら、だな」
(次の日曜日は、俺んち、来るか? ほら、せっかく、これ、セットだし。お前の好きなもん、作ってやるし)
 だけど俺の言葉より、一瞬、みなこのほうが早かった。
「よかった。よろこんでもらえて。先生が、セットにしたほうがいい、っていうから」
「……は?」
 先生? 先生って誰だ?
「わたしはね、一人暮らしにはセットものは邪魔だっていったんですけど、先生が『真咲くんもお年頃です。そろそろ、彼女なんかもできるかもしれませんしね』なんていうから、二人分のセットにしてみました!」
 って、まさか、その似てねぇ声真似は、若王子の真似か?
 それからお前、その表情はなんなんだ。俺がはじめて見る表情で、若王子のことを話してるぞ。それじゃあ、まるで――
「その、みなこ、お前」
 俺が声を震わせていると、閉店間際のアンネリーの店頭で、「すみませーん」と、間の抜けたような男の声が、響いた。 みなこは、はじかれたようにふりむき、その声の主に駆け寄った。
「せんせい!」
 ――は?
「小波さん、お迎えに来ましたよ」
「え? どういう風の吹き回しですか?」
「ん。怖いお兄さんに、『じゃあ、俺のうちで飯でも食っていかないか』ってね、誘われてるんじゃないかと思ったら、いてもたってもいられずに」
「……もう。なにいってるの、先生?」
「や。こっちの話です。ね、真咲くん。あ、と。お久しぶりです」
 学校帰りなのか。あいかわらず、だっさい茶色のコートを着てやがる。さらに、それこそ、何年着てるんだかわからない、緑のニットベストの姿。まごうことなき、元担任、若王子だ。
 三年ぶりになるのに、全然変わらない姿のままで、ヤツは、軽く頭を下げる。
「小波さんが、いつもお世話になっているみたいですね。ありがとうございます」
「お前に礼を言われる筋合いはない」
「や。久しぶりの再会なのに、真咲くん、つれないです……。僕は小波さんの担任ですよ? お礼くらい言わせてください」
 あまりにも若王子のヤツがぬけぬけと言い放つから、思わず俺は、いっしゅん、言葉を失ってしまった。それをいいことに、さらにヤツは続けた。
「あ、と。それともうひとつ、お礼を言わなくちゃ。ちょっと前のことになるけど、君が小波さんに教えてくれたんだそうですね。あの七不思議の話」
「それが、どうしたんだよ」
 俺は、憮然とした顔を見せて、つっけんどんにあいづちを打った。
「それのおかげで、ほら。彼女の願いが、かないましたから。それに、ね。僕の願いもかないかけてる」
 ――ね、小波さん?
 と、若王子は彼女を小さく呼んだ。やさしい、やさしい、かすかな声で。
 まるで、壊れ物を、純白の真綿で包むように。
 みなこはそれに微笑んで、おっとりのんきな声を出す。
「ほんと。化学のテストも、もう赤点を取ることがありません。骨格標本と、頭脳コーヒーのおかげです。あ、そうだ。ねぇ、先輩も」
 俺はいっしゅん、呼吸をととのえ―― 「ん、なんだ。みなこ」 と、できるだけ、優しく小さく呼んでみた。けれど、だめだ。若王子のような、優しい声でこいつを呼べない。
「なにかお願い事があったら、メモに書いてわたしに渡してくださいね。わたしがこっそり、骨格標本にぶら下げておいてあげますから。あ、だけど、ほら、あれですよ。わたし、あとちょっとで卒業だから、それまでにお願いしますね」
 無邪気な笑顔でそう言うみなこに、若王子は微笑みかけた。
「うん、そうだ。小波さんの言うとおりです。そうすればいい、ね、真咲くん。だけど、かなえるのは僕だから、場合によっては、無理なこともあるけどね?」
 あくまで柔和に。しかし、若王子の瞳の底に宿った光は、確かに俺を牽制していた。
(こいつら、ふたりは――)
 もう、考えなくてもわかることだった。
 ただ、時期を待っているだけ。思い合っているのは、明白だ。
 俺の出る幕なんて、これっぽっちもなさそうだ。
 それから、若王子は、みなこのためにと、小さなアレンジメントをひとつ、俺に頼んだ。
 俺は、慎重に花を選んだ。ガーベラ。ミニバラ。モカラ。ピンポンマム。オレンジの色の花ばかりだった。そして、さし色に、真っ白なトルコキキョウを。
 オレンジ色のグラデーションを胸に抱いたみなこは、ほんとうに小さな姫のようで、俺は思わず目を伏せた。
「先生、ありがとう」
 俺の選んだ花束を抱えて、若王子に礼を言うみなこの姿に、胸の奥がずきずきと、痛んだ。
「どういたしまして。その花束、良く似合いますよ。お姫様みたいです」
「……もうっ、先生。なにいってるの! 恥ずかしいです」
 俺には、あんな歯の浮くようなセリフ、言えない。言ってやれない。
 ほどなくして、アンネリーは閉店時間を迎えた。けっきょく、俺の誕生日の日の、最後の客が、若王子だったというわけだ。
「じゃあ、お先に失礼します。先輩」
「あー。気ぃつけて、帰れー」
「先生に送ってもらうから、平気です」
(それが危ないっつの!)
「じゃあ、真咲くん、また」
 もう、来なくていい、そう言ってやりたかったけれど、みなこはきっと、またこいつに来てほしいんだろう。そう思うと、俺にはなにも、言えなかった。
「ねぇ、ところで、先生」
「ん? なんですか?」
「さっき先輩に言ってた、先生の、かないかけてる願い、ってなんですか?」
「んー。まだ秘密です」
「ずるーい」
「知りたい?」
「はい」
「じゃあ、卒業式の日、灯台に来て?」
「灯台……?」
 やつらの声が遠ざかる。
 身も、心も、俺を置いてきぼりにしたままで、若王子とみなこは肩を並べたまま、街灯が等間隔に並ぶ、夜の道にまぎれて消えた。

 店内の明かりを消すと、フラワーキーパーからの蛍光灯のあかりだけが、あたりに青く、白く、落ちた。
 レジカウンターには、一日の集計レシートが長々と打ち出されて、床に向かってくるくると螺旋を描いていた。俺は、その端を無造作にちぎった。
 緑のエプロンの胸ポケットから、ボールペンを取り出して、
 ――みなこが幸せに、なりますように
 そう書いて、4つ折りにして閉じた。だけど、すぐに、もう一度開いた。そして、付け加えた。
 ――みなこが幸せに、なりますように(できれば俺と)
 それを、限界まで小さく折りたたんで、ぐるぐると、透明のセロハンテープで何重にも巻いて、エプロンのポケットに入れた。
 みなこが卒業するまでに、これをあいつに託すことができるだろうか。
(多分、無理だな)

 「ハッピーバースディ、俺」
 口のなかで小さくつぶやいてみた。俺の声は、静かな店のなかに、ほんの少しとどまって、そしてすぐに、立ち消えた。
 だけど、思ったよりも小さくて優しい、声が出せた。
 俺は、たったのそれだけで、案外満足してしまって目を閉じた。我ながら、安い男だ。


 ――それが、みなこと出会って二年半。春はまだ遠い、誕生日の夜のことだった。

おわり


  初出 20090124(真咲BD)
  訂正ののち再掲 20090406

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