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+++つゆのはれま(R18)

続き
 
 


 その日は、梅雨の晴れ間のたった一日、貴重な青空が見えていたのに、先生は陸上部の練習には出なかった。そして、わたしを化学準備室に呼んだ。

「おいで」
 先生によばれて、青いシャツの胸元に顔をうずめると、ひさしぶりのせいなのか、すこし、よそよそしい感じがした。わたしは、つま先立って、先生の首もとにキスをした。まだ夏は先にあるのに、先生の肌は、もう、かすかに汗ばんでいた。
「あついの?」
 わたしが聞くと、先生は、別に、と答えた。そして、わたしを抱きよせて、自分の胸にくるみこんだ。
 先生はゆっくりとした動作で、あたりまえのようにわたしの胸元をかざる赤いリボンをすべらかにほどいた。わたしは、先生の指が好きなように動けるように、と、すこしからだを引いて、ふたりの間にわずかに隙間をあけた。
 不思議と、妙に静かな時間だった。吹奏楽部が奏でるかすかな音楽や、運動部がたてる遠い咆哮がきこえてきてもいいはずの放課後の時間帯なのに、古い廃工場の片隅にいるかのごとく、部屋にはまるで何の音もなかった。使い込まれ、手入れをされた、化学実験に使う道具たちが、息をひそめてわたしたちの行動を見守っていた。
 ぱさり
 ようやく聞こえた音は、わたしのケープが、床に落ちた音だった。

 その日の先生は、わたしを世界のぜんぶから隠すようにして、包み込みながら抱きしめた。わたしのからだを先生の背中でぜんぶを覆いこんで、二つにおりまげて、手も、足もたたませて、ぎりぎりと小さく小さく丸めてしまって、抱きしめた。そんな格好で先生とつながると、苦しくて、ときどき、からだの節がいたくなったけれど、わたしは、はじめてさせられる、このかたちを好きだと思った。先生にまもられる、ちいさな子どもになったような、そんな気がしたのだった。
 作業机のうえには、アルミのバットにならべられたビーカーが、規則正しい配列で伏せられていた。透明のビーカーがとなりのビーカーを透かし見せて、さらにその隣のビーカーも透けていた。薄いカーテンのちいさな隙間をぬけて届いたひかりが、その透明をつらぬいていた。先のほうは、薄い緑の色に見えた。
 わたしは、いったいいくつまでビーカーが透けて見えるのか、その数を数えてみた。そうでもしないと、ひさしぶりに先生によろこばされているわたしは、たったひとりで、あっというまに先にいってしまいそうだった。
 変な方向をみて、口びるをかみしめているわたしを見下ろして、先生が笑いながら言った。
「ねえ、さっきからどうしたの? もしかして、我慢してる?」
 わたしはぎゅっと目を閉じた。敏感になりすぎたわたしは、先生の顔を間近で見るだけでも、いってしまいそうだったのだ。
「今日は、せんせいと、いっしょにおわりたいの」
 目を閉じたままでわたしがそう言うと、先生は片手をわたしの髪のなかにさしいれて、右の耳をむき出しにすると、そこに向かってささやいてきた。
「ん。じゃあ、あわせてあげるから。ほら。そんなにかたくならないで、からだの力をすこし、抜いて」
 わたしは、その先生の言葉に安心して、目をうすく開けて、手足の関節をゆるめた。そして、とろん、と、先生の下で溶け出しそうな感覚に自分のからだを泳がせた。先生の背中からはみ出したわたしの手足を、先生がやっぱり、白衣のすそで隠しこんだ。
「せんせ、今日はどうしてこんなふう、に、するの?」
 とぎれとぎれの声でわたしが聞くと、先生も聞きかえしてきた。
「これ、嫌い?」
 わたしは首を左右にふった。
「嫌い、じゃ、ない」
 それを言い終わると、もう話すことも面倒になった。快楽にひきずられ、先生のうごきにだけ集中を、した。
 やっぱり、部屋のなかは静かだった。先生の吐息と、わたしが漏らすかすかな声が、空間を湿らせていった。先生の首筋は、さっき抱き合ったときよりももっともっと、熱くすべらかに、濡れていた。わたしは、先生のつややかな鎖骨に舌をのばした。なめるとあまいと思ったのに、実際はなんの味もしなかった。期待はずれに肩すかしをくらったのもつかの間、先生が、胸の下でわたしの手のひらを探し出し、ぎゅっと指をからめて握ってきた。そして、つよく抱きしめられてキスをされた。そのしゅんかん、とつぜん、小さく悲鳴をあげてわたしはいった。それからしばらくして、先生は動きをとめた。先生も終わったんだと思う。同時にいくときはいつも、わたしには、先生の終わりがわからない。自分のことだけで、精一杯になってしまうから。

 ひさしぶりだったのに、いつもより少し、みじかいセックスだった。ふたりとも、きちんと快楽を得たけれど、そしてそれは、わたしにとってはあいかわらず深かったのだけど(先生にとってはどうなんだかわたしにはやっぱりわからない)、ふだんよりも、ずっとやさしい感じがした。
「先生、なんだか、今日はちがった」
 わたしが先生のはだけた胸に頬を押し当てて甘えると、
「そう? 久しぶりだったから、思ったより持ちませんでしたね。不満だった?」
 と、先生は、わざととぼけた。

 終わってからしばらく、わたしたちはおしゃべりをした。からだを合わせたあとの生ぬるく甘い空気が、わたしたちをいつもより少しだけ、親密にさせる。
「最近、君はなにをしていたの?」
 先生がそう聞くから、わたしは先週の日曜日、友人のはるひとカフェめぐりに出かけた話をした。
「アナスタシアに限定メニューのパフェが出来たんです」
「うん」
「それがすっごくおいしいんです。七月末までだから、とにかくわたし、通いまくるつもりです」
 先生の胸のなかで、小さく身振り手振りをしながら話すわたしがくすぐったいのだろうか。先生は、すこし身をすくめながら言った。
「ふうん。彼とは、行かないの?」
「あ。彼、とは」
(別れました)
 さらりとそう言えなくて、わたしは言葉をつまらせた。言いづらそうにしたわたしに気づいたのか、先生はさりげなく話題をもどした。
「でも、そのパフェ、そんなにおいしいなら、先生もいつか食べてみたいです」
 先生のその言葉に、わたしは一瞬、息を、呑んだ。
 そして、出来るだけ、さりげなく、なにげなく聞こえるように、言った。
「じゃあ、先生。今度、一緒に行きませんか?」
 すると、先生が、薄く笑った気配がした。
「うん、今度ね」
「……!」
 先生の軽い言葉のトーンで、『今度』なんてないことを、わたしはすぐに悟ってしまった。
 だからわたしは、わざと無邪気にふるまい、無神経に踏み込む。
「ね、じゃあ、来週は? 先生」
 たった一枚だけわたしが持つことを許された切り札、『子供であること』を先生の目のまえでちらつかせた。だけど、先生はじょうずに、それに気づかないふりをした。
「ごめん。来週は陸上部の、合同練習です」
 わたしの切り札すら、この人の前ではただのクズのカードになる。わたしは、すでに意味のなくなった見えないカードを手のひらで握りつぶしながら、それでも一縷の望みにかけて、見苦しく追いすがった。
「じゃあ、その次の週!」
 わたしの子どもっぽいわがままに、先生がつかまるわけもない。
「ごめん、その日は、期末考査の問題作りだ」
 そう言いながら先生は、めんどうそうな仕草でからだを起こしかけた。もう、なりふりはかまっていられなかった。来週の約束が無理なら、せめて、今、この時間をもうすこしだけ。
「いや。まだこのままでいたい」
 わたしが先生の手のひらをつかむと、先生は指が絡まるまえに、それをそっとじょうずにはずした。
「ね、僕を……先生を、困らせないで?」
 やさしく諭されると、わたしはもう逆らえない。
「……ん」
 先生が自分のワイシャツのボタンをひとつづつ、器用にとめはじめた。こうなると、もう、動きはじめた時間は止められない。先生が示す一日の終わりに、わたしは今日も、有無をいわさず従わされる。こんなときに何を言えばこのひとがもうすこしだけ、自分をそばに置いてくれるのかを、わたしは知らない。圧倒的に、先生のまえではわたしはただの子どもだった。
「だいじょうぶ? 起きられる?」
 ソファーに転がったままのわたしに向かって手をさしのべながら、先生がほほえんだ。
 ――この手をとったら、今日はもう、終わり。
 そう思うと、唐突に泣けてきた。
「あれ、どうしたの……?」
 先生は、わたしの涙に驚いたようだった。
 ごめんね、なかないで、ごめんね、ごめんね。
 すこしあわてふためきながら、何度もなんども、あやまった。その声に、わたしはますます涙を流した。
「先生、べつに悪くないのに」
 わたしが、嗚咽のすきまからそう言っても、先生は、ずっと、ずっと、あやまり続けた。

 * * *

 噂になることをことさら嫌う先生が、今日は、わたしのとなりに並んでいる。
 いままで先生を何度、帰り道にさそっただろう。そのたびに「噂になったら恥ずかしいし」と、冗談めかした言い方で、やんわりとことわられていた。
「先生と帰れるなんて、うれしい。はじめてだから」
 わたしがそう言うと、先生は坂の下の海をみつめながら、「だって、君が泣くからですよ」とだけ、ちいさく言った。
 夕方の海風が、わたしたちをなでていた。豆つぶみたいな小さな白い船が、すべるように凪をわたっていた。学校の外にでても、やっぱり、静かだった。先生の声と、わたしの声しか、世界にはなかった。
 ふたりはすこし離れて歩いているのに、光線のいたずらのせいで、わたしたちの目の前に延びる長い陰は、まるで恋人同士のように、仲良く寄り添っていた。
「ねぇ、あの」
「はい」
「……その」
 先生が、なにかを言いよどんでいた。わたしが先生を見上げると、先生はあごに手をあてて、難しい顔をしていた。
「なあに? 先生」
「うーん。やっぱり、いいです。また、今度」
 先生は、わたしの頭を軽くなぜて、そっとわたしの肩に触れた。
「ねえ、なあに、先生? そんな風に言われたら気になります」
 わたしは、立ち止まって聞いた。先生も、並んで立ち止まった。
「ん。その。期末考査が終わったら……」
「終わったら?」
 そのしゅんかんだった。さあっ、とわたしたちの間を海風が抜けて、わたしのスカートのすそが、ひらひらとちいさく舞った。
 すると、先生の手が、わたしにまっすぐ、伸びてきた。次の場面では、わたしはからだ全部、先生の青いシャツの胸に、くるみこまれていた。先生の右手は、しっかりとわたしのスカートのすそを握っていた。
「君、スカート短すぎです」
 わたしは、驚いて、先生の胸の中で小さくふるえた。
「せ、先生……。そんなこと、より、こんなところ、誰かに見られたら、うわ、噂になっちゃいます、よ……」
「うん。なったら、困るね」
 抑揚のない声で、先生が答えた。わたしは、声に失望が出ないように、慎重にたずねた。
「やっぱり、困るの?」
「うん。困る。君が困るから」
 湿った海の風が、おどろいたわたしの後頭部を抜けた。
「わたしが?」
「ほら。君の彼氏に、悪いじゃないですか。誤解されたら、困るでしょう?」
「せ、せんせ……。あの」
 わたしは言葉をつまらせた。
 いいかげん、本当のことを言ったほうがいいのではないだろうか。
 どう言おうかとわたしが言葉を探していると、先生が先に口を開いた。
「でも、もしかしてうまくいってないんじゃないですか?」
「……え?」
「だって、君、その。今日、あのときの感じがちょっと、ちがったから」
「あのとき、って、つまり、してるとき、ってこと?」
 先生は、わたしのスカートのすそを右手でしっかりとホールドしたまま、もう一方の手でわたしのほおに触れた。
「そうです。その、してるとき、です。君、今日はずいぶん早くに夢中になってたから、久しぶりだったのかな、って」
 わたしは一度、ゆっくりとまばたきをした。それからひと息、呼吸をととのえると、静かな声で答えた。
「そりゃあ、久しぶりです。だって、わたし、先生以外とはしてないから」
 先生はびっくりして、わたしをパッと手放した。そして、わたしの目を正面からのぞき込んで来た。
「え……? どうして?」
 立ち止まったままの先生を置いて、わたしはゆっくり歩きはじめた。そして、目のまえに伸びる、先生の影に向かって静かに話した。
 ――彼とのはじめてが、うまくいかなかったこと。わたしのほうがいくぶん慣れていて、それに彼が気を悪くしてしまったせいであること。そこからぎくしゃくしてうまくいかなくなってしまったこと。
「先生の、せいです」
 わたしが言うと、先生の影が身を縮めた。
「ごめん、でも」
「でも?」
「よかった」
「え?」
 先生が、わたしの隣に追いついて、並んだ。
「これで気兼ねなく、君を日曜日に誘えます」
 驚いて横顔を見あげると、先生はほほえんでいた。おだやかに、といってしまえばそうかもしれないけれど、それだけじゃない。眉間には、なにかに迷うような表情もわずかに見えた。わたしがはじめて見る先生の表情だった。
「せんせい?」
 わたしが呼ぶと、先生がわたしを見下ろした。先生の瞳は、かすかな涙の膜に覆われていた。その湿度に、わたしの気持ちがわずかにうるんだ。
 はじまったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。だけど。
 ――きっと、これをいつか、恋にする。
 わたしは、言葉には出さず、胸のなかでつぶやいた。いつか、『あとすこし』と、この人からわたしに甘えてねだるその日まで、わたしは決してそばを離れない。
 だいじょうぶ。わたしたちには、いままで重ねてきた以上の時間が、この先に広がっているのだ。
 わたしは、なにげないそぶりで先生との距離をかすかに縮めた。すると、並んで歩くふたりの、手の甲が偶然ふれた。
 そのときだった。世界に、急に音が戻ってきた。
 夕方の道に吹く風が、耳のうしろでうずまく音。目のまえに広がる海が、波をよせて騒ぐ音。それから、先生の靴の底がたてる、まっすぐと前に進む、足音。
「もしかして」
 わたしは、先生の手首をつかんで、手のひらの内側をそっとなめた。先生はわたしの突然の行為におどろいて手をひいた。
「塩の、味」
 わたしがつぶやくと、先生はおかしな顔をして、わたしのことをあたまからつま先まで、しげしげと眺めた。
 
「わたし先生にさわられてると、音とか、味とか、五感の一部を忘れちゃうみたいです」
 わたしが言うと、先生は冗談まじりの大げさなゼスチャーで胸をおさえた。
「君、すごいこと、言いますね。そんなこと言われると、どきどきします」
 迷惑ですか? とわたしが聞くと、先生は光がぬけて、薄青色に彩度を落としつつある空をあおぎ見ながら関係ないことをつぶやいた。
「このぶんじゃ、きっと明日も晴れますね。明日はさすがに、陸上部の練習に出ないと、部員さんたちに怒られちゃいますかね?」
 わたしは言った。
「休んじゃえばいいです、先生。わたし、明日も行きます、化学準備室に」
 先生は首を振った。
「ううん。やっぱり僕は先生だから、明日はちゃんとお仕事しないと。でも、そのかわり」
「そのかわり?」
「期末考査が終わったら、ふたりでどこかにでかけましょう」 
「いいの、せんせい?」
 わたしが聞くと、先生は、うん、もちろん。はじめてのデートです、と、笑った。

 わたしたちの目の前で、一番星が金色にまたたいていた。わたしたちは、その光にむかって、まっすぐに、歩く。


 
 

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Pour.m


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2009年2月初出
2009年5月 訂正のうえ再掲

 


 

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