ダイヤモンド




 目覚めると一人だった。
 三才になる息子が隣にいない。地下室暮らしとは言え、それなりに清潔を保っているコットンのシーツには、息子の寝の皺がうっすらと残っている。手をやるとぬくもりはすでに喪われていた。
(一人で起きたのだろうか?)
 ベッドを降りるときに、いっしゅん真鍮の枠が肌に触れた。ひやりとした硬い質感に、ぴりりと嫌な気配が走る。
(なにごとも、なければいいけど)
 すこし性急な仕草で底がはがれかけたスリッパをつま先にひっかけると、寝間着の上になにかを羽織ることもせず、私はリビングへと続くドアのノブをまわした。

 部屋には誰もおらず、静かだった。朝を示すわずかな光が、ひとすじ、階段に続くガラスの扉の向こうに射しこんでいる。かざせば、瞬時に腕を切り落とされてしまいそうに思えるほどの真っ白な光だ。
 ここは、地下2階だ。地表から深い、というわけではない。だから、出ようと思えばいつだって表に出ることはできる。禁止されているわけではない。
 だけど、私はここに囚われて以来、一度も階段をのぼってはいない。私自身に出ようとする意志がないのだ。
 息子には『出るな』と教えた。出れば醜い怪物に食い殺されてしまうのだと、彼がものごころつくその前から、何度も何度も言い聞かせた。『醜い怪物』を形容するときは、秀彦の死の間際の姿を思い浮かべながら語った。あるいは、彼も幼いまなうらに秀彦が見せた絶望のおもざしの断片を残しているのかもしれない。
 息子は怯えて、決して階段をのぼろうとはしない。

 貴彦がこの地下室を不在にすることはよくあった。何をしているのかはしらない。本人は『仕事』だと言って出かけた。早ければその日中に帰ってくるし、そうでないときには二、三日空けることもあった。そして、戻ってくるときにはかならず、生活に必要な食糧、資材を得てきた。
 おそらく、今回もそうなのだろう。
 しかし、息子がいないのはおかしい。
 かつて一度も、貴彦が息子を『仕事』に連れて行ったことはない。
 息子は、この地下から、ただの一度すら外にでたことはないのだ。高熱を出したときも、ベッドから落ちて怪我をしたときも、すべては貴彦が手当をした。
 いくら息子が三才になり、かすかな分別をつけはじめたとはいえ、生まれてはじめて外の世界を知る、好奇心に満ちた若い命が興奮を覚えないはずはない。もしくは、『怪物』をおそれて泣き叫ぶかもしれない。いずれにしろ、『仕事』に連れて行けば、きっと、彼の足手まといにしかならないだろう。
 首をかしげながら部屋を見渡したとき、テーブルの上に見慣れぬ書類が無造作に置かれていることに気がついた。めずらしいこともあるものだ。貴彦は、こういったものを出しっぱなしにすることはほとんどない。もしかして、私への伝言があるのかもしれない。私はテーブルへと近づいた。

 残念なことに、私はとても勘がいいタイプだ。だから、テーブルの上に置かれた一連の書類を一瞥しただけですべてをさとってしまった。当面の生活費が入っているのであろう分厚い封筒と、知らぬ女の名の戸籍抄本、それからパスポート。
 つまり、この名になり、これをたずさえて、ここを出て、一人で生きていけ、ということだろう。
(ついにきた、か)
 案外、冷静だった。もしかしたら私は、こういう日が来ることをこころの内で予想していたのかもしれない。そして、とある疑惑を、確信に変えた。

 ――おそらく、私が産んだのは、秀彦の子だ。
 貴彦は、自分の子でなく、秀彦の子どもをほしがったのだ。愛する弟を永遠に手元に残したい。しかし、あとかたもなく切り刻み、殺してもしまいたい――。
 その矛盾した願いを叶えるため、貴彦は私の体を使って秀彦の分身をつくった。
  DNA鑑定なんて嘘っぱちだ。素人の私たちを騙すことなんて、彼にとっては造作もないことだったのだろう。あるいは、双子である弟の秀彦は、兄のイカサマに気づいていたのかもしれない。しかし彼は、すでにこの地下での暮らしに倦んでいた。殺されることすらも、秀彦にとってはただの余興の一つだったのかもしれない。

 この疑惑を持ちはじめたのはいつの頃からだっただろうか。
 秀彦が死んでしばらく経ち、私が貴彦を『先生』と呼ばなくなった頃、だっただろうか。
 いや、違う。貴彦にかまってほしくて、私があらゆる手段を講じて関心を誘おうと躍起になっていた頃だ。時には、貴彦の嫌う物音をたてて、彼の怒りすら買おうとした。しかし、なにをしても彼は私を見向きはしなかったし、怒るようなこともしなかった。
 ようは、彼は私を愛する対象とは見ていなかったのだ。
『良い仕事を遂げた道具』としていたわりこそはすれ、殺そうと思うほどの愛情は持っていなかった。
 そのことに気づいたとき、わけもなく、ひとすじの直感が走った。
(――私は、秀彦の子を産まされたのかもしれない)
 だけど、私自身はその可能性を否定したかった。陳腐な勘ぐりであると思いたかった。
 貴彦の子どもを得たと、信じ続けていたかった。
 今日、この日がこなければ、確信を持たないまま、私は愛する二人に囲まれて、おだやかに生きていくことが出来たはずなのに――。

 貴彦と息子には、もう二度と会うことは出来ないのだろう。永遠に、私の元から去ってしまった。
 貴彦は、あの子をどうするつもりだろう。
 愛した甥にほどこしたような、心的外傷を植えつけてゆくつもりだろうか。だけど、もうそれは私によってすでに達成されている。
『外に出ると、怪物に食われるよ……』
 私の呪縛が、野外の風を、陽の光をおそれる子どもにさせてしまっていることだろう。
 すでに、その楽しみを奪われたと知ったなら、次はどうするのだろう。愛した弟をいたぶりつくして殺したように――?
 そこまで考えて、私は首を横に振る。
 いや。それはないだろう。息子は、殺されなかった方の秀彦だ。貴彦の理解者となり、片腕となり、おそらく二人は一対となり歩み、暮らしてゆくのだろう。
 そんなことよりも、今、私は、泣くべきではないのだろうか。
 それとも、再び与えられた生に喜びを見いだすべきなのだろうか。否。見いだせるわけもない。

 一連の書類の横に、ぽつりと置かれた小瓶がある。
 揺らせばほの白い燐光をはなつ液体は、おそらく、致死量の劇薬だ。いっしゅんで私を殺してくれるだろう。
 ――苦しめても、もらえない。
 その価値すら私にはなかったのだろうか。
 わずかな光が多角にカットされた瓶に集まり、希望のかたまりのようにキラキラと輝いている。ばかみたいだ。
 ふと、幼いころの宝物を思いだした。私は、大きなガラス玉の指輪をダイヤモンドと呼んで、このうえなく、大切にしていたのだ。
 それは『こんやくのしるし』として、子どものころ、幼なじみにもらったものだった。
 ダイヤモンドはどこに行ったのだろう。もう、砕けて粉々になったか。

『死にたいのなら、自分で死になさい、深雪――』
 貴彦の冷たくて甘い、凜とした声が耳の奥に響いたような気がした。
 同時に、
『おかあさん、しなないで。いきて。いきて。僕のぶんまで』
 息子の舌足らずな、あのやわらかくて愛しい声が、私を呼び止めたような、気もした。

 愛されたのは、秀彦 に、か。
 私は、膝から床にくずおれた。そのまま、ずいぶん長い時間、動けずに、ただその場に、うずくまっていた。







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20100822



非常に蛇足的な話になってすみません。

『貴彦ルート』で手を血に染めた深雪に、幸福な最後はあり得ないと思っています。
それは本人も理解しているだろうと思い、この場で叫んだり悔いたりはさせませんでした。

貴彦は、けっきょく『男女の愛』を理解しないまま、その人生を歩んでいくと思っています。
先天的にそう生まれついているような気がしています。
ただ、たしかに深雪を『同胞』として認めて尊敬した瞬間はあり、それへの敬意ははらいつつも、
『男女』として生きていくことを望む深雪の望みはかなえられないから、と去っていきそうです。
対して、一人になった深雪は、今すぐには無理でも、長い孤独の時間のなかでいつか貴彦の思いに気づくのだと思います……

すみません、余計なことを言いました。

では、みなさまありがとうございました^^
また、どこかでお会いできましたら。

ささたま